以下は個人的な意見ですので参考程度にどうぞ
画像はUFC® 162 Silva vs Weidman Event Gallery | UFC ® - Mediaより
ミドル級タイトルマッチ 5分5R
WIN 挑戦者クリス・ワイドマンvs王者アンデウソン・シウバ
(2R 左フック→パウンドによるTKO)
ワイドマンは王座奪取に成功
幻滅、幻が消え去るとき
子供の頃から大嫌いな瞬間がある。それはマジックの種明かしの瞬間だ。まるで魔法のように不思議なことが目の前で行われている。目を輝かせてそれを魅入り、この世界にはきっと魔法があるに違いない、自分もその魔法を知りたい、どうにかしてその真実を暴きたい、そう願って足りない頭を巡らしてトリックを分析する時、自分は最高に浮かれた気持ちでいたのを覚えている。不思議なことに、種がわからないことにこそ自分は喜びを感じていたのだ。
そして突如としてその種が明かされる。あれだけ知恵を絞ってもわからなかったトリックは、そのほとんどが言われてみれば当たり前というものばかりだ。自分があんなに知りたいと願っていたものが与えられたのだ、本来ならば小躍りをしながら喜ぶべきはずだ。だが、そういうときに自分の口を突いて出た言葉はいつもお決まりのセリフだった。
「なーんだ、そんなことか。つまんないの、がっかりしちゃった。」
アンデウソンが目を泳がせてマットに崩れ落ち、その顎に痛烈な拳が数発打ち下ろされ、哀れにも審判の足に縋りつく王者を見たときに、大勢の人間の口を突いて出たのもまたこのセリフだったのではないだろうか。がっかりしたことを表現する言葉に「幻滅する」というのがある。幻が滅びたとき、人は喜ぶべきことのはずなのに、不思議とひどく落胆する。まるで騙されていたほうが良かったとでもいうかのように。
なぜなのだろうか?理由は簡単だ、人は、「そんなこと」も見抜けない自分の出来の悪い頭と、それを有難がって崇拝していた情けない過去の自分自身に腹を立てるからだ。そしてすぐに、「そんなこと」で自分を欺いた張本人を詐欺師のように認識し、自分が注いだ期待と尊敬を慰謝料込みで取り返そうとするからなのだ。だから幻が滅びたとき、人は落胆し、そして相手に対して酷く腹を立ててしまうのだ。
アンデウソン・シウバ、7年に渡り王座を防衛するという大いなる魔法を成し遂げたUFCミドル級王者は、その日ついに己の魔法の種を明かされ、全世界から「幻滅」されることになった。
魔法の筆でケージの中に綴られ続けた奇跡のストーリー
アンデウソン・シウバ、UFC史上最長の防衛記録を持つ彼の戦績は、まるで駆け出しの作家が書いた脚本のようだ。あまりにもご都合主義で、そのKO劇はことごとく嘘臭く、鼻白むほどに大げさな演出をなされている。ある時は相手のパンチを見切り、相手の打ち終わりに下がりながら軽いジャブのようパンチを打ち込んでKOを取った。打たれた相手は壊れた人形のように手足をバラバラとさせながら崩れ落ちていった。またある時はお互いにらみ合い、これからパンチの応酬をするぞという時に、まるで悪ふざけのような虚を突いた下からの前蹴りで顎を蹴り飛ばしてKOした。蹴られた相手はまるで腰から下を突然無くしたかのように沈んでいった。もし私がこの脚本を提出されたら本をたたき返しながらこう言うだろう、「あまりにもリアリティがなさすぎる、格闘技に『魔法』なんてないんだぞ?」
だがこれは誰の脚本でもない。全ては真実、あの金網の中で本当に紡ぎだされたノンフィクションのストーリーだ。そしてそのストーリーを綴る魔法の筆を、いつしかアンデウソンはその手に握っていた。
スパイダーがUFCに参戦をしたのは2006年6月、今からちょうど7年前、彼が31歳の時だ。日本で一世を風靡した格闘技イベント「PRIDE」に重大な問題が発覚したとして、フジテレビが運営会社との関係を切ったのと同じ月のことだ。それまで格闘技界の中心だったイベントが終焉を迎えるキッカケが生まれた月に、その後世界の中心となる会社が飛躍する原動力となった人物がUFCに登場したのはなんとも皮肉な話だ。一つの時代が終わり、そして新しい時代が始まる。
彼が一番最初に始めたのは柔術だ。幼少の頃、近所の子供達が柔術を始めたのを眺めているうちに、彼もいつしか練習に参加するようになった。当時のブラジルでは、柔術の習得はエリートの行為であり、またブラジルでは貧しい子供達が生きていくには様々な困難がある、だから彼はそれを学ぶ必要があったのだという。決して洗練された練習ではなかったものの、彼にとってはかけがえの無い経験だった。その後カポエイラ、テコンドーと学び、最終的にムエタイに落ち着くことになる。
そして彼がプロになる前に触れたものの一つが、ヒーロー物のコミックスだ。特にお気に入りだったのが「スパイダーマン」で、彼は自身のヒーローを聞かれたときに、スパイダーマンを挙げている。彼の「スパイダー」というニックネームも、ここから来ているのかもしれない。
デビュー以来好成績を収めるも、2003年にPRIDEで高瀬大樹に敗れるとMMAへのモチベーションを失い、MMAを辞めようとさえ考えるがノゲイラ兄弟に説得されMMAに留まる決意をする。そして古巣のシュート・ボクセを離れてノゲイラ兄弟がいるブラジリアン・トップ・チームに移り、その後世界の各プロモーションに参加し、再び彼はキャリアを積み上げていく。(その最中、ランブル・オン・ザ・ロックにおいて、後にUFCで対戦する岡見勇信を蹴り上げでKOし反則負けとなっている。)
まるで武者修行のような20代を終え、様々な挫折と苦悩を経て、偉大なる師匠と信頼できる仲間を得た31歳のとき、前述の通り彼はUFCと契約することになる。この契約が彼とMMAに夢の国を到来させることになるとは、このとき誰も想像しなかったに違いない。ここから彼の、信じがたいサクセス・ストーリーが始まったのだ。
2006年6月、初戦でタフな殴り屋で知られるクリス・リーベンを試合開始後わずか49秒で膝蹴りによって撃破すると、続いて強豪のリッチ・フランクリンをまたしても膝蹴りで破り、その後強豪を次々と
撃破、世界で名を馳せた無頼の男、ダン・ヘンダーソンをチョーク・スリーパーで破るといよいよアンデウソン・シウバの勢いは止まらなくなっていく。
この頃からだろうか?スパイダーの試合の態度に、何か妙なものが見え始めたのは。元々コミカルな動きをする選手ではあったが、戦い方自体は比較的オーソドックスなムエタイだったような気がし
ていた。だがこの頃からスパイダーの動きには、どこか相手を挑発し、小ばかにするようなものが見え始めたのだ。極端に手数が減り、距離を大きく取って自分からは仕掛けないことも増え始めた。何しろ7年、7年間だ、余り鮮明には覚えていないが、確かこの頃からだったように記憶している。そして彼の打撃技術がいよいよもって悪魔めいたものになったのもまた、同時期のことだったように思う。
その極地はデミアン・マイア戦だ。打撃で明らかに勝り、ローやパンチでマイアはすっかり痛めつけられ、十分にKOできる情勢であったにも関わらず、アンデウソンは試合中に挑発を繰り返し、マイアの周囲を戦意がないかのように徘徊し、必死に向かってくるマイアを軽くいなしてはろくに反撃をせずにまた眺めだすのだ。あまりの傲慢さ、あまりの無礼さに観客はマイア応援一色になり、過去ここまで不愉快な光景は無かったというくらいに険悪な空気になった。スパイダーの技術は圧倒的、実力差は明白、そしてマイアは明らかに負傷していた。だからこれ以上相手を傷つけたくないとでも思ったのだろうか?真相はわからない、ただ一つ明らかにわかるのは、スパイダーの態度はケージの中にあってはならないものだということだけだった。
この件はMMAを愛するUFC社長デイナ・ホワイトを激昂させた。次に同じ事をしたら、二度とUFCに居場所はないと思え、誇り高く熱い戦いを愛する彼はスパイダーに警告した。彼の怒りは最もだった。誇り高き柔術スペシャリストのデミアン・マイアもまた、彼の態度には酷く腹を立てていた。当然のことだろう、KOされるのではなく、まるで戦うに見合わない弱者かのように扱われ、情けをかけられたのだ。アンデウソンの行為は、殺すよりも遥かに残酷な仕打ちだった。
そんな彼にオクタゴンの神が試練を与えたのか、次の試合は彼がUFCに来て以来最大の危機となった。対戦相手の名前はチェール・ソネン、自分をアメリカン・ギャングなどと嘯き、トラッシュ・トークで挑発を繰り返す、レスリングをバックボーンに持ったミドル級トップ・コンテンダーの一人だった。
チェール・ソネンはこれまでの選手とは違っていた。数年来、悪魔と契約したとしか思えない打撃技術を持ったアンデウソンを相手に、頭に血が昇って浮ついた足取りで対峙するしか出来なかった連中と違い、ソネンは確固たる意思と悪意を持ってアンデウソンの最も苦手な部分を突いた攻めを展開したのだ。それはストライカーの弱点の代表である、テイクダウン・ディフェンスだ。鬼のような形相で距離を詰めてはレッグ・ダイブを繰り返し、タックルを気にするアンデウソンの死角になる上方からオーバーハンドを振り回してはアンデウソンの顎を狙うソネンのスタイルは、アンデウソンのリズムを完全に破壊し、彼におどける余裕を一切与えなかった。彼は25分近くの間ほぼ大地に縫いとめられ、顔面を殴りつけられ、スタンドでもダウンを奪われるなど一方的な展開となった。このまま彼の防衛記録も止まるのか、誰もがそう思っていた。
しかし、スパイダーは最後の最後で奇跡を起こした。またしても転がされ、ガードの体勢でソネンのパウンドをかわしていた時のことだ。ソネンは明らかに判定を意識しつつあった。あとたったの1分ほどで彼の手にはベルトと名誉が手渡されるはずだ。たかが一分、ソネンの力量を持ってすれば相手に何もさせずに同じ状態を維持するのは容易いはず、だった。だがソネンがわずかに顔を下げた瞬間だ、スパイダーは長い手足をするりとソネンの頭に巻きつけると、あっという間にソネンを三角締めに捕らえてしまったのだ。必死に抜け出そうと身じろぎをするソネンだが、もう逃げ場は無かった。一度タップしかけて辛うじて思いとどまったソネンは、すぐに諦めてきちんとタップした。この逆転の魔法によって失いかけていた人心を再び一気に掌握し、さらにはこれまで以上の名声と尊敬、そして幻想を彼にもたらすことになったのだ。
その後のことは記憶に新しい。劇的なKOの連続、攻略する糸口すら見えないかのような試合展開、ケージ内をまるで我が家の庭のように扱う余裕ある態度、彼には誰も勝てやしない、たとえ彼に不利な要素を持つどんな選手を連れてこようとも。彼が手にした魔法の筆が織り成すストーリーはファンと選手にそんな幻想を抱かせ、そしてその幻想に人々は酔いしれていた。そんな中、いよいよその物語の総仕上げとして選び出されたのが、スパイダーの嫌がるものを全て備えていると評されていた「オール・アメリカン」クリス・ワイドマンだった。
道化の化粧の下に隠され続けた、臆病な蜘蛛の「素顔」
薄笑いを浮かべてかかって来いという仕種を繰り返しては、にじり寄るアメリカンの足に鋭いローを蹴りこんでいく。再び挑発しては、今度はアメリカンが少しでも深く踏み込んだら直撃するはずの蹴りが空を切る。スパイダーは、なんとか相手に毒の牙を突きたてようと死に物狂いだった。あれが余裕ある態度に見えるのならば、それは彼が顔に溶接してしまったピエロの鉄仮面のせいかもしれない。
1Rは散々だった。これは2回目のチェール・ソネン戦でも同様だ。開幕早々にタックルに来たアメリカンに容易く転がされると、そこから痛烈なパウンドを浴びる。ソネンと違うのは、そのパウンドの威力だ。何しろ体格がソネンよりも一回りも大きく、スパイダーよりも大きいのだ。蜘蛛の巣に収まりきらないアメリカンはスパイダーの拘束を逃れ、顔面に容易くパウンドを放り込む。フックの軌道で放たれるパウンドが、スパイダーの顎を弾き飛ばす。表情は涼しげだが、パウンドは逃げ場のないダメージを頭部にもたらす。ヘッドスリップが得意なアンデウソンも、押さえつけられて殴られれば同じ人類である以上確実にダメージを負う。彼がもし本当に不死身の神か何かならば別だし、彼にはまさにそういう幻想があったのも事実だ。しかし、彼が人間であることはこれ以降の動きで明らかになる。
ワイドマンのアームロック狙いから逃れ、際どい足関節も逃れてスタンドに戻ると、スパイダーは明らかに動きが悪くなる。口が開き、体からどっと汗が噴出すと、スパイダーはするすると金網際まで下がり、腰に手を当てて回復を図る。おどけたフリで時間を稼ぎ、なんとかガスを取り戻そうとしているのだ。しかし若きアメリカンはハートが強い。距離をつめ、金網を背負って相手の動きを見るアンデウソンに対して、何とアンデウソンの攻撃を待ち構えたのだ。まったくスパイダーの毒の牙を恐れていない。彼の体からは自信が溢れ出ている。絶対王者にこんな態度が取れる戦士がいようとは、想像すらできなかったことだ。
そのまま金網に押し込んだアメリカンは、頭を胸に付けて一度離れた後、右、左の逆ワンツーを放つ。この左フックが金網を背負うシウバには全く見えておらず、完全な直撃を許してしまう。
この後中心に戻ると、スパイダーは怒った様な素振りを見せてローを連発、これはかなりいいヒットをするもののワイドマンは全く動じずスパイダーから目を逸らさない。少し動きを止めたり、視線を外した後突然繰り出す不意打ちも全て捌き、パンチに至ってはアンデウソンのお株を奪うように顔面を突き出し、ボディワークでアンデウソンのパンチをヒョイヒョイと交わす。長いコンパスのハイキックもきちんと反応しブロック、そして続く強襲のフライング・ニーもキチンと捌き、続いて繰り出したアンデウソン本気のワンツーも距離を取って回避する。ワイドマンの自信の根拠は確かだった。ストライキングにおいて、ディフェンスではスパイダーを完全に凌駕しているのだ。むしろパンチが見えていないのはスパイダーだ。飛び込み右ストレートを被弾し、効いてないという素振りをするがダメージを逃がしてはいない。ブザー終了間際にも右ストレートを被弾して1Rは終了した。
2Rが始まると、スパイダーは過去最も激しい挑発を始めた。ガードをだらりと下げ、コイコイと手を振り、そして近づくワイドマンを相手に下がりながらいなそうとする。サークリングを繰り返し、ガードをかなり低く、時には完全にだらりと下げてしまっている。これが意味することは何か?
それは、アンデウソンがタックル・ディフェンスにかなりの部分を裂いてしまっているということだ。ノーガードは挑発のためだけではなく、すぐにタックルに反応できるように低めに腕の位置を設定しているのだろう。これでなければ、ワイドマンのタックルには反応が間に合わないのだ。2Rが開始すると1度、ワイドマンが早々にタックルにトライするがこれにはすぐに反応して切っている。ここでタックル・ディフェンスを徹底し、スタンドの状態を維持し続ければ、あとはストライキングのスキルで上回ればアンデウソンが勝利するはずだった。
しかしこの戦術で勝利をするには、アンデウソンには足りない要素があまりにも多すぎた。
まず一つ目がスピードだ。スパイダーが勝利を重ねてきた要因の一つに、他のミドルよりも体にキレがあり、スピードがあったことがある。パワーよりもスピードを重視し、過剰にバルク・アップをしない彼の動きは非常に速く、それがゆえに距離を取ってはカウンターをあわせるスタイルがとてもよく合っていた。しかしそれは一方で差しあいで不利になり、タックルを切る際にもパワー負けして引きずり込まれる可能性が高くなることとセットだ。スパイダーのテイクダウン・ディフェンスの悪さは、ここでのパワー負けによるものも大きかったと思う。しかし恐るべきことに、このアメリカンはパワーで勝るだけでなく、スピードもまたスパイダーに匹敵するものだった。ハンド・スピードではアメリカンのほうが勝っており、アンデウソンは反応が遅れることが多かった。このバランスの良さは、同じレスリング・エリートでありスピード、パワーを最高のバランスで維持しているヘビー級王者ケイン・ヴェラ スケスととてもよく似ていると思う。
次に、ストライキング・スキルで上回れなかったことだ。今までの対戦相手に比べても、アメリカンはずっと目がよく、特にディフェンス面において相当に優れていた。スパイダーに臆することもなくよく見ており、決して距離を見誤らずに安全圏を維持しては、隙を見て前に出てくるアメリカンのスタンド・テクニックに対してスパイダーは五分か、それよりも劣っていた。必死にローで削り、挑発を繰り返してディフェンスを崩そうとしたスパイダーだったが、それでも結局ワイドマンは崩れなかった。恐らく単純なムエタイだけならスパイダーが勝ることもあったろう、しかしスパイダーは自分の天敵である「レスリング」を恐れるあまり、ストライキングに必要な構えや足の位置、距離をほぼ生贄に捧げてしまっていた。これでは彼に勝てないだろう。また、ディフェンス面でも反応がかなり悪く、ワイドマンの左フックは結局最後までまったく見えていなかったように思う。スパイダーは決して目がそこまでいいわけではないのかもしれない。
そして最後に、自分はこれが恐らく最大の要因だろうと思っているが、スパイダーは体格において負けていたことだ。長い手足とそれを用いたムエタイの制空圏は非常に広く、体格で劣る選手たちはスパイダーの巣の中で巣の持ち主を捕まえることはできなかった。その距離があるからこそ、相手の攻撃を神がかり的に回避することもできたのだ。身長で勝ったのは岡見勇信だったが、蹴りをあまり使えずタックルもそこそこくらいのレベルだった彼はスパイダーには届かなかった。しかし今回の対戦相手はスパイダーよりも大きくリーチも見劣りしない、そしてスピードのあるタックルはスパイダーのパンチの距離よりも長く、辛うじて蹴りでぎりぎり上回れるくらいだ。何よりも鋭いステップ・インで繰り出されるワイドマンのパンチは、スピードと距離でアンデウソンよりも優れていた。距離の制し合いこそがアンデウソンを勝利に導く最大の要因であり、そしてそこで上回れなくなった時、スパイダーの魔法は解除され、絶対無敵の不死の王者、スーパーヒーローとしてのスパイダーの姿は消え、地下室の隅で震える哀れな蜘蛛の姿が露になる。
スーパーヒーローの最後は無残だった。挑発に動揺しないワイドマンが自信を漲らせて距離を維持する。まず繰り出された左フックがスパイダーの頬を掠めると、アンデウソンは効いたかのような素振りでおどけてみせる。しかしアメリカンは動揺しない。さらに自信を持って素早くステップ・インして同じ軌道の左フックを放つと、これが軽くスパイダーの顔面を捉える、その刹那スパイダーの腰がぴたりと止まる。恐らくこれが効いたのだ、さらにステップ・インしてツーのオーバーハンドをスウェーでかわすスパイダーに、返す刀でワイドマンは打ち下ろした右拳をすぐさま上方へ跳ね上げてバックハンド・ブローを狙う。スパイダーのお株を奪うこの奇襲をさらなるスウェーでかわした時、スパイダーの魔法は解け、完全に無防備な、もはやどこにも逃げ場の無い哀れな蜘蛛が姿を現した。
少し無茶な体勢だったアメリカンは、ここですぐさま体勢を起こしてさらにもう一歩左足を踏み込んで、三度同じ軌道の左フックを叩き込む。
戦士の表情を満面に浮かべたアメリカンの、力強い左フックが死に体となったアンデウソンの頬に叩き込まれたとき、7年間の夢の時間は終わりを告げ、馬車はカボチャに戻り、王者は空ろな目で天井を仰ぎ見た。彼の目に、空に輝くスポット・ライトの星達は映ってはいなかったかもしれない。一つの時代が終わり、そして新しい時代が始まる。
この敗北は、あまりにも多くの人々を幻滅させる結果となった。スパイダーは己の力を過信する余り、ワイドマンに対してふざけた態度を取りすぎて自爆したのだ、これではMMAを見始めた人が競技を誤解する、こいつはまったくもってクソッタレだ、選手の一部はこう非難した。試合後の観客達も大ブーイングだった。謙虚にワイドマンを褒め称え、自分の時代は終わったのだと語るアンデウソンに対して、観客達は明らかに怒っていた。全力を出し切らずに負けたように見えるアンデウソンに対して、消化不良を感じていたのだろう。ブーイングの最中、わずか一瞬だったが、アンデウソンの表情にとても繊細で悲しそうなものがよぎったような気がした。
だが、私には皆が何に怒っているのかわからない。スパイダーのファイト・スタイルは、あれで勝つからこそ賞賛されたのであって、あれで負ければこれほどに無残なのはわかりきっていたことだからだ。そしてあのファイト・スタイルは、決して傲慢だからでも、相手を舐めているからでもない、勝つためにやっていたに過ぎないのだということを、彼の負ける様を見て完全に理解できた。彼は道化を演じることに死の物狂いであったのであり、道化たる努力とは、実れば実るほどにその努力は見えず、彼の真実は化粧の下に隠れていくのだ。彼の化粧が全て落ちてしまった今、そのことがはっきりとわかる。
38歳という高齢であり、シェイプは徹底的に絞り込んだものではなく、レスリングはからっきし、そして決して打たれ強いわけでもない。いくらスタンド・テクニックに優れているとはいえ、勝ち続けるにはあまりにも厳しい条件がそろっている。その中で勝ち続けるために彼が導いた答えこそが、オクタゴンの中で繰り広げた一世一代の道化芝居だったのではないだろうか。真っ向勝負で勝てないことがわかっていながら真正面から小細工なしで挑むのは勇敢ではない。自分に酔った、自己満足 のためだけの変態行為だ。勝ちが目的のスポーツで勝てない戦略を採用するのは愚かであり、致命的にセンスがないことだ。
同じような選択をした選手を思い起こせば、皆曲者揃いだ。ヘビー級のトリック・スター、「ビッグ・カントリー」ロイ・ネルソンは、たるんだ腹と小柄な体格のままヘビー級で勝ち続けるためにオーバーハンドという技を極めた。レスリングとフィジカルがいまいちでボクシングが得意なディアズ兄弟は、己の顔面を狙わせてそこにカウンターを当てるために男らしさを前面に出したキャラをつくり、試合前から執拗に殴り合いをするように仕向けていった。特異なスタイルを持つ選手は全て、己の弱点を補うためにそうなったのであって、決して性格的なものだけでやっているわけではないのだ。ただ体を鍛えるだけが努力ではない。
スパイダーは自分の顔面を狙わせて、自分の苦手なスキルを持ち込ませないために道化芝居を極めたのだ。冷静さを失った人間は脆い。頭に血が昇れば人はつい拳で相手を殴りつけようとするし、体に力が入って硬くなる。周りが見えなくなれば、カウンターの威力は何倍にもなっていくだろう。31歳でUFCに初参戦し、そこで日々高まっていく自分への評価と期待、そして日々衰え続けていく自分の肉体を前にして、スパイダーが知恵を振り絞った結果として、あのファイト・スタイルがあったのではないかと思っている。あるときを境に変わりだしたスパイダーのスタイルは、恐らくこのやり方に気づき、それを実戦の中で形にしていく過程だったのではないだろうか?体格や加齢は、合法的な努力ではもはやどうにもならないものだ。ここが原因で負けるのならば大人しく現実を受け入れて負け続けるか、引退するか、非合法な手段に手を出すか。それか、誰も考えつかなかったような奇策に出るしか手段は残されていない。そしてアンデウソンは奇策を選んだ。他にやりようなどなかったのかもしれない。
何が努力だ、という人もいるだろう。だが考えてみて欲しい。もし自分がファイターだったとして、果たして金網の中で道化芝居を演じることが出来るだろうか?目の前には自分を痛めつけるためだけにトレーニングを積んできた奴が立っている、周りにはだれも助けてくれる人はいやしない、そして金網が閉じられれば、自分が負けを認めるか何もわからなくなるまで、そこから出してもらうことはできないのだ。その周りには、自分達の戦う様を好奇の目で眺める無数の観客達がいる。彼らは熱い戦いを、激しいKO決着を望んでいる。この状況で、まるでピエロのように振舞って相手を挑発し、ひどく無防備な状態のままで怒る相手の攻撃をかわし、さらに観客の大ブーイングを一身に受けるなど-もしかしたら明日にも仕事を失うかもしれないのだ-自分にはとてもできやしない。多くのファイターも同様だろう。一生懸命戦うほうがどれほど楽かわからない。大勢が歩く道から外れることが、いかに勇気の要る行為であることか。
並外れて優れていることを英語でアウトスタンディングというが、群れから離れて立つ行為はそれだけ困難なことなのだ。それができるようになるには、並大抵の努力では無理だろうと思う。勝てないだけならまだいい、スパイダーの選択は、負けでもしたらどれほど叩かれるかわからないし、勝ったとしても相手選手に対して礼を失しているとしてどれほど非難されるかもわからない。挙句の果てには、八百長試合の可能性まで囁かれるのだ。これほどリスキーで恐ろしい選択肢はないだろう。
そしてそんな恐ろしい選択をしてでも、スパイダーは金網の中に残りたいと願ったのだ。彼がどれほどに敗北を恐れていたのか、私には計り知れない。しかし彼は明らかに怯え、いつも必死だったのは間違いないだろう。試合前に過剰に腰を低くし、笑みを見せたりおどけてみせるのも、彼は全力で、死に物狂いで道化を演じていたからではないだろうか。だからこそ、チェール・ソネンが、試合前から挑発し続けて自分の化粧を剥ぎ取ろうとするのにいらつき、焦り、挙句の果てに試合前のステア・ダウンで肩で殴りつけるほどの行動に出てしまったのだ。史上最も手ごわいとされ、プロ・ファイターが軒並み自分の敗北を予言するクリス・ワイドマンを前にしたとき、なんとかアドバンテージを得ようともがき苦しんだ結果、相手を混乱させようとステア・ダウンでアメリカンにキスをしてしまったのだ。
決して余裕がある行動などではないと思う。彼は怯え、負けることを恐れるあまりに、あがいた結果としてああいう行動で精神的に揺さぶろうとしていたに過ぎないのではないだろうか。攻撃衝動の根源は勇気ではない。恐怖であり、だからこそ臆病な人間ほどMMAに向いているのだ。そしてアンデウソンの素顔は、きっととても臆病なのではないかと思っている。それを道化の化粧で隠し、余裕があるかのようにハッタリをかまし、相手を挑発して冷静さとスタミナを根こそぎ奪いつくして勝利する。彼が努力して化粧がうまくなるほどに、誰も彼の努力を理解せず、彼のことを天才だ、神のようだ、種も仕掛けも無い魔法に違いないと褒め称える。彼の苦悩や孤独や恐怖は、この結末を迎えてもなお、理解されることはないのかもしれない。
魔法の解けたスパイダーは、それでも金網に巣を作る
賛否両論を巻き起こした敗北のあと、アンデウソンは言った。自分の時代は終わった、そしてベルトを懸命に追うことはないが、引退はしないと思う、と。
彼の戦い方は先に述べたように苦肉の策だったのではないかと思うし、真っ向勝負では勝てないからこその選択だったのはシウバのコメントや態度からも明らかだ。彼自身、もう限界であることを知っていたのは間違いないだろうと思う。今回の試合でもたった1Rのグラウンドの攻防でスタミナは底を突いていたのだ。若い選手を相手にもはやフィジカルでついていけないのは明白だ。しかしあれだけ無残な最期を遂げたスパイダーが、それでもまだ金網に残る意思を見せたのは意外だった。自分はきっと引退するだろうと思っていたからだ。
試合前、アンデウソンが敗北をした場合にはすぐにリマッチをする、その権利が彼にはあるとUFC社長デイナ・ホワイトは明言していた。だがスパイダーはそれを望むだろうか?ホワイトはその必 要性を感じているだろうか?それはわからない。また彼にはスーパーファイトの可能性も残されている。今はまだ7年ぶりの敗北に色々と思うこともあるだろう。結論が出るのはまだ先のことかと思
う。
アンデウソン・「スパイダー」・シウバ、彼の魔法の筆は折れ、多くの人は彼に幻滅しただろう。彼のサクセス・ストーリーは最悪のエンディングを迎えたと言う人も多いだろう。だが自分はそうは思わ ない。彼が選んだファイト・スタイルに相応しい負け方であり、他人が選ばない道を進んだ人間の結末は、いつだって想像がつかない結末を迎えるものなのだ。彼が勝つために繰り返してきた、多くのファイター達への侮辱の代償でもあるだろう。
道化の最後は常に滑稽なものだ。31歳という高齢から始め、7年間防衛という遥かにありえない偉業には一切八百長などを疑いもしなかったくせに、道化が哀れにも玉から転げ落ちた途端にやらせ試合だなどと言い出す輩もいるらしい。とんだクソッタレだ。腹を立てるなら、勝手に神格化して勝手に幻滅する、自分の出来の悪い脳みそに立てるべきだ。しかしきっとスパイダーは言い訳などしないだろう。覚悟して選んだ道だろうからだ。彼は己の全てを白塗りの化粧の下に隠し、笑みを含んだ分厚い唇だけを見せながら、その下で何を考えていたのだろうか。それは彼以外、世界中の誰にもわからないことだろう。
それでも彼が試合後すぐに引退しない旨を表明したのは、負ける恐怖も世間からの非難も越えて、純粋にMMAが好きだ、戦うことが好きだという気持ちがスパイダーの中にあるからに他ならない。何一つ真実を見せない道化が見せた、たった一つの真実だ。そしてまた、たとえどんな結末を迎えようと彼が見せてくれた芸術的な戦いと、それに心躍らせ続けた自分の気持ちに偽りはない。彼の見せてくれた魔法は今も自分の心に焼き付いている。それだけで十分だ。今は7年間背負い続けた、あまりにも重くなりすぎたベルトを若き王者に託し、ひと時の安らぎを得てほしいと思う。千の夜を乗り越えて走り続けたスパイダーに訪れる夢が、喜びの魔法に満ちた素敵なものであらんことを。
毒蜘蛛退治を依頼された最後の勇者「オール・アメリカン」
UFCミドル級は長い間毒蜘蛛が王座を占拠し、人々はすっかり困り果てていた。そして我こそはという勇者を送り込んでは、皆屍となって帰ってきた。それが7年間も続いてきた。あるときはTUFという競技会で好成績だというものを送り込んだ。彼は毒にやられたのか、混乱しケージから走って逃げてしまった。町を訪れた無頼の賞金稼ぎは、腕が入る隙間も無いと思われた太い首に長い腕を巻きつけられて窒息させられてしまった。遠い島国から来た青年は、一瞬の隙を突いた攻撃を受けてすっかり正気を失い、その後何度も毒針を突き刺されて完全に体の自由を奪われた。人々はいつしか毒蜘蛛を崇拝し、いっそ最後まで彼に王座に居座ってもらおうとさえ思い始めていた。そんな中現れたのが、ミドル級最後の勇者「オール・アメリカン」クリス・ワイドマンだ。かつて最も毒蜘蛛を苦しめた、町のギャングを自称するインテリ戦士チェール・ソネンは、彼が負けたらもう毒蜘蛛退治のできる人間は存在しない、そう明言した。
実際、そのアメリカンの試合前評価は高かった。毒蜘蛛の毒にやられて惑わされた私を含む一般大衆の予想とは裏腹に、戦いの心得があり、かつワイドマンを知っているファイター達は軒並みこのアメリカンが勝つことを予想していたのだ。ウェルター級の金網の支配者「ラッシュ」ジョルジュ・サンピエールはこのアメリカンを「スパイダーにとって最悪の相手」と評し、皆が私に期待している毒蜘蛛退治はないだろうと答えた。軽量級の勇者フランキー・「ジ・アンサー」・エドガーの出した答えもまた、このアメリカンだった。フランキーは言った、クリス・ワイドマンは「完全体」であり、彼には全てがそろっている、だから負けるはずはないのだと。盲目の羊達は、彼らがきっと試合を盛り上げるために言っているのだろうと思った。だってスパイダーは、これまでもそういう触れ込みで送り込まれたファイター達を、みんな返り討ちにしているのだから。
このアメリカンのMMAキャリアは浅い。MMAを始めたのは2009年、今からたった4年前のことだ。三人兄弟の次男として生まれた彼は、一つ上の兄とともにあまりにもやんちゃで元気があり、困り果 てた両親が彼らを疲れて動けなくさせるためにレスリングを学ばせたのが、彼のアスリート経歴のスタートだ。若くしてレスリングを学んだ彼は、大学に至るまでレスリングを続けてオール・アメリカ ンに二度選出され、他にも各レスリング大会で優勝した経験のあるレスリング・エリートだ。
彼はニューヨークのホフストラ大学でレスリングを続ける傍ら、体育の修士号と心理学の学士号を取得した。そして在学中、あるMMAファイターと出会い、彼にレスリング・コーチとして招かれたのが セラズ・BJJ・アカデミーである。彼はそこでレスリングを教えながら、自分もまた柔術を経験し、わずかな期間でメキメキと頭角を見せ始める。そして心の片隅で柔術に未練を残しつつ、卒業後はそのままホフストラ大学でレスリングのアシスタント・コーチの仕事に従事し、一方でオリンピックのトライアルに備えた練習をし続ける。だがその夢は破れ、彼はこのままオリンピックを目指し続けるのか、それともずっと気にかかっていたMMAに進むのかを決断しなければならなくなった。そして彼は、MMAへの道を歩むことを決意した。25歳のときだ。
その後リング・オブ・コンバットというローカル団体で2年間で4試合を経験したあと、彼はUFCと契約をする。2011年のことだ。それからUFCで経験した試合はわずかに5試合、そのうち強豪と言われるのはたったの二人だった。一人はデミアン・マイアという柔術のスペシャリストであり、もう一人はパワフルなレスリングとフィジカルを持つマーク・ムニョスだ。特にムニョス戦では圧倒的な実力差で勝利したものの、彼の実力を計りきるには不十分だった。MMAキャリア無敗とはいえ、20年近くに渡り36戦を経験しているスパイダーと比べれば、その経験は無いに等しい。彼がオッズで圧倒的に不利なのも無理からぬことだった。
全てを備えたアメリカン、全局面で絶対王者を圧倒
試合前、ワイドマンは語っていた。MMAを始める以上トップにならなければ意味が無いし、始めたときから自分は同階級の王者を倒すことを考えて練習してきたのだ、と。全ての対戦相手の後ろに、 彼は常に王者の姿を思い描いていた。そしてキャリアを積み重ねならが、いつも王者を倒す方法を思案していたのだ。
そして彼が出した結論はこうだ。まずスパイダーには弱点がある。それはチェール・ソネン戦で明らかになったことだ。まず彼はレスリングができない。だがソネンは柔術がまったくだめだった。自分 は柔術に自信があるし、これがスパイダーを倒す鍵になる、と彼は語った。事実、クリス・ワイドマンは柔術で全米王者にもなっているほどの実力者だ。これまでにもサブミッションで試合を極めたこ とは多い。なるほど、ソネンよりも有利な武器がまず一つある。
次に、アンデウソンの本質は試合前にある、というのだ。スパイダーはケージに上がる前の段階で、対戦相手を精神的に破壊し、ケージの中でプレッシャーを与えて相手をすっかりおかしくしてしまうのだと。だから彼は試合前に絶対に相手に飲まれないこと、そして試合中に絶対に相手に対して心を乱さないことの重要性を語った。思い返せば、確かにスパイダーは試合前から妙に物腰低く、まるで戦意がないかのように振舞うかと思えば、ケージの中では一転まるで天才のように振る舞い、相手を侮辱し、ひどく攻撃的になって相手のペースをめちゃくちゃにし、焦らせようとしてくる。
最後に、彼は自身のフィジカルの強さを挙げた。レスリングで鍛えあげた彼のカーディオはタフで、スタミナではアンデウソンに勝っている、と。ワイドマンは若くまだ29歳、それもついこの間までオリンピックを目指してトレーニングしていたのであり、かたやアンデウソンはもう38歳と肉体的に下り坂であり、アスリートとして活動できる限界に近い年齢だ。そしてワイドマンは自信ありげにこう締めくくった、この試合では自分に有利なものがたくさんある、理論的に言えば、自分が負ける要素は無いのだ、皆もそれは認めざるを得ないだろ?勘違いした若者の大風呂敷か、それとも冷静に現実を俯瞰したうえでの結論か、後は二人をケージに入れた後の科学反応を待つのみとなった。
果たして、ホフストラ大学出身のレスリング・エリートは正しかった。彼の下した結論は、寸分違わずそのとおりとなった。
試合開始前、スパイダーはまず拳を合わせようとするワイドマンを無視する。明らかにわざとだ。スパイダーはさっそく心理的に揺さぶりをかけてきている。試合が開始されると、ここでもアンデウソンはハイタッチを拒否して距離を作り始める。対するワイドマンは、様子を見ながら、早い段階でタックルにトライした。頭を相手の股の下に突っ込むようなタックルから、掬い上げると片足を引いて横に落とす。素晴らしいレスリング・テクニックだ。これが極まるとあっさりとスパイダーは大地に転がる。ここまでは予想通りだ。
ここからが違った。長い手足を持つスパイダーの下からの仕掛けは、これまで多くのレスラーを絡め取って苦戦させてきた。ソネンはこの手足に絡め取られ、中々有効なパウンドを放つことが出来 ず、使ったガスに見合うだけのダメージを与えられないまま、結果的にスタンドでスタミナ不足のところを狙い撃ちされる羽目になった。だが、下からの仕掛けは体格で勝るからこそ可能だったに 過ぎないのだ。自分よりも大きい体躯を持つワイドマンは、ガードから容易く体を起こすと、もうそこは十分に強いパウンドが放てる距離だ。ワイドマンはそこからスパイダーの顔面に重いパウンド を打ち込んでいく。スパイダーの顎が殴り飛ばされ、乾いた音が響き渡る。どう見てもまずい当たり方だ。これで効かないわけがない、というパウンドの入り方だった。
そこから何とかシウバは柔術を仕掛けようとする。しかし柔術の心得があるワイドマンは、それに対処しつつレスリングと柔術を高次元で融合させたスキルを余すところ無く発揮した。ポジション維持と相手のコントロールにレスリングを使い、いいポジションが取れるとそこからすぐに柔術を仕掛けて極めようとしてくるのだ。レスリングの出来ないスパイダーは巧くコントロールされて立ち上がることができず、隙を見てはパウンドを放つワイドマンを相手に防戦一方だった。それに対してワイドマンは、ポジションを作っては次々に攻めてくる。ハーフを取った状態から、抵抗しようとうるさい腕を捕まえてアームロックを探り、シウバが反応すればまたハーフに戻して鉄槌を振り下ろす。見事な支配力だった。
そしてその中で最も惜しかったのが膝十字だ。ディフェンスしようと足掻くスパイダーの一瞬の隙を突いての膝十字はかなりいい形だったが、これは惜しくも外れてしまう。過去アンデウソンの数少 ない敗北の一つは足関節によって生まれている。ワイドマンがそれを研究していたのかは知らないが、相手の予想を裏切る見事な奇襲だったろう。技を解いたシウバを、今度はすぐさまヒール・ホールドに切り替えてまた絞り上げていく。これもいい入り方だ。この男の商品棚には置いていないものがない。全てを揃えたという表現は、決して誇大広告ではなかったのだ。
1R、結局シウバは一方的にやられ続けた。それはソネン戦でも同様だったが、違うのはダメージの量だ。ワイドマンのパウンドははっきりいってKOを狙えるほどの威力であり、ソネンの削りを目的としたパウンドとは質が違うものがあった。これで顔を殴られ、足を壊されかけ、常にグラウンドでコントロールされたシウバはスタミナもごっそり失った。そして本来ならば優位に立っているはずのスタンドでも、ワイドマンに怯む気配はまったくない。金網を背負って足を止めての挑発を前に、なんとアメリカンも足を止めて、スパイダーがかかってくるのをじっと待ち続けたのだ。これにはスパイダーも相当に肝が冷えたことだろう。さらには蜘蛛の巣を背負った大好きなこの場所で、強烈な左フックまでプレゼントされている。
2R開始直前、何やらをワイドマンに向かって喋りかけ、鬼気迫る顔でかかってこいという仕種をするシウバの様子は、彼がどれほど追い込まれているのかを物語っていた。
2Rが開始すると動きはさらに道化じみてくる。挑発を繰り返してはローで足を狙う。相手には顔を狙わせて、自分はローで削り続ける。さすがの試合巧者であり、この狡さと、それを堂々と実行できるのがアンデウソンの強さでもあるのだ。さらには立ち技で禁忌とされている関節蹴りまでも打ち込んでくる。何もかもを引っ張り出して戦う腹積もりだ。スパイダーは明らかに窮地に立たされていた。
あの手この手で揺さぶろうとするスパイダーだが、このアメリカンには「全てが揃っている」のだ。全ての中には、当然メンタルの強さも含まれている。このアメリカンの心には、図太い金属の主柱が ずどんと一本打ち込まれていた。この頑丈さはきっとNASAが製作した特殊金属を使用したものだろうと思う。彼はスパイダーが何をしようと、まったく慌てたりしないのだ。奇襲攻撃にも反応して尽く 回避しており、アンデウソンの不意打ちに当たることは一度も無かった。素晴らしいディフェンスだ。
アメリカンは挑発に動じることなく果敢にスタンドで攻め続けた。アンデウソンは無理な攻めで体が泳ぐ瞬間と、無理なタックルを繰り返してスタミナを消耗することを望んでいたと思っている。だからあそこで無理にタックルに行かなかったのは好判断だ。2R開始直後のタックルを防がれたときに、スパイダーが罠を張っているのに気づいたのかもしれない。もしあの展開で挑発に嫌気が差し、スタンドを嫌ってタックルに行けばワイドマンに重大な危機が訪れていた可能性は高いと思っている。たぶんスパイダーは相手がどこかで挫けてタックルを連発してくると予想していたのではないだろうか?だがワイドマンの心は強く、タックルには逃げなかった。相手がディフェンスの準備をしているところに無理にタックルに行き続ければ、せっかくたっぷりと残っているガスをどぶに捨てることになる。スタミナが減ってディフェンスが甘くなれば、一撃を受ける可能性は跳ね上がるのだ。
そして運命のときが訪れる。お互いが足を止めた状態で、ワイドマンは前に出る構えだ。一方でアンデウソンは、すでに軽くスウェー気味でワイドマンに打ってこいと挑発をしている。そこに左フッ クがまず一発、おどけるアンデウソンにステップ・インをしてさらに一発、少し怒ったワイドマンが放った予想外の裏拳に、とっさにまたスウェーをしてしまったスパイダーの顔面にさらにもう一発の左 フックが放たれると、スパイダーの目が飛び、これまで彼がKOしてきた選手達のように腰から砕けてマットに崩れ折れた。
すかさず追撃をしてハードなパウンドをたたきつけるワイドマンには一瞬の油断も無い。アンデウソンの目が虚ろになり、ぼんやりと天井を眺めだすとハーブ・ディーンはすぐさま止めた。
若きアメリカンはすぐに手を止めると、マウス・ピースを取りだして金網にたたきつける。必死に我慢を続け、相手に負けないように抑え続けた心の動きを、彼はここぞとばかりに解放したかのよう に喜びを爆発させた。一人のヒーローがこの夜に誕生した。この夜のワイドマンは、スパイダーが憧れ続けたアメリカン・コミック・ヒーローそのものだった。
伝説の終焉とニュータイプ・レスラー時代の幕開け
今回の勝因は複数あれど、一番の原因はスパイダーが体格的なアドバンテージを失ったことを指摘したいと思う。これまでのスパイダーのストライキングは蹴りを使った圧倒的なリーチの維持であり、その距離があるからこそ弱点のタックルを抑止できていた面は大きいだろうと思う。そして仮に寝かされたとしても、その長い手足を使ったガードワークで相手に何もさせずにスタミナだけを消費させることもできたのだ。しかしそのアドバンテージを失い、かつ相手が最も苦手とするレスリングを極め、さらにムエタイでもアンデウソンと対峙できるレベルであったとき、アンデウソンが安全に攻撃できる手段はなくなってしまったのだ。ワイドマンの打撃を見ればわかる。ワイドマンは攻撃の時、常に重心が安定し、前に出るときにちゃんと足がついて来ている、そしてその体勢でパンチを打つからKOするのに十分なパワーがあったのだ。もしリーチ差があれば、大胆なステップ・インをしすぎてカウンターの餌食になるか、無理に腕を伸ばして足がついていかずに体が泳ぐかのどちらかになってしまうだろう。
もしアンデウソンがハングリーに、テイクダウンを恐れずに削りを中心とした昔のような打撃戦を展開すればまだ勝機はあったかもしれない。しかしそれを選択すれば、ワイドマンのタックルを防ぐ手段はアンデウソンにはない。そしてグラウンドで明らかに差があること、ワイドマンにグラウンドでスパイダーを仕留める武器が大量に備わっていること、何よりも1Rのグラップリングで早々にスタミナを使い果たしてしまったことを考えれば、どのみち結果は同じだったように思う。殴られるのがスタンドかグラウンドかだけの違いだろう。
最も、もしワイドマンのメンタルがもっとヤワだったら、負けていた可能性もあっただろう。それくらい今回のアンデウソンの挑発はめちゃくちゃだった。会見をボイコットするだけではなく、ステア・ダウンでキスをしたり、グローブをあわせなかったり、試合中何事か喋りかけたり、笑いながらやれやれという仕種をしたり。観客の自分のほうがワイドマンより先にキレてしまいそうなほどに、アンデウソンは挑発に必死だった。あれをすべて潜り抜けて勝利したワイドマンのメンタルは信じがたいものがある。彼は大学で心理学の学士号を取得しているが、もしかしたらアンデウソンのそういう行動は恐怖の表れであることを知っていたのかもしれない。
現在、各階級では選手の大型化が進んでいる。動ける限界まで絞り込んで、より体格で勝った状態を作り出したほうがMMAでは有利なことが明らかになったからだ。それは同大会で行われた一つ前の試合、エドガーvsオリベイラでもよくわかるはずだ。距離が遠く、グラウンドの展開があるMMAでは、体格の差は大きな差となるのだ。今その体格を最大限に活かしている王者にライトヘビー級のジョン・「ボーンズ」・ジョーンズがいるが、彼がヘビー級に階級を上げたら途端に勝てなくなる可能性があることをスパイダーの敗北は示唆しているような気がする。最もボーンズはレスリング・エリートだ。タックルを防げる上に自分にもタックルの選択肢がある以上まったく同じとは言わないが、自分と同じ距離でスタンドを展開できる選手が登場したらそれだけでボーンズはかなり勝率を下げる可能性は高いだろう。
そしてワイドマンの登場は、これからUFCを席巻する選手のタイプを決定付けたと思う。それは「オール・アメリカン」ならぬ「ホウル・アメリカン」とも言うべき選手の形だ(この言葉の使い方は間違っているかもしれないのでご了承ください)。完全体、全てを兼ね備えたレスリング・エリートの時代の幕開けである。その先駆者は今回ワイドマンの勝利を予想したフランキー・エドガーとGSPの二人である。彼らは素晴らしいカーディオを持ち、スタンドでの卓越したボクシング・スキルとタックル、そしてローキックで相手に選択を迫り、ディフェンスを散らせて有利に展開する。それをさらに推し進めたのがヘビー級王者「ブラウンプライド」ケイン・ヴェラスケスだ。彼はボクシング、レスリングに加えてずば抜けたムエタイのテクニックを持ち、クリンチでの攻防とさらには相手を沈めるKOパワーも持ち合わせている。そしてそれにさらに柔術を加えたのが今回王者となったクリス・ワイドマンと言えるだろう。ムエタイ、ボクシング、柔術、レスリング、そして優れたカーディオとグッド・シェイプ、さら
にその階級では大きな体格。およそ隙らしい隙がない、全局面で戦えるファイターだ。
これまでは自分が得意とする局面に持ち込む手段を持つ選手が強かった。ブラジル系ファイターは概ねそうだ。元ヘビー級王者ジュニオール・ドス・サントスはタックル・ディフェンスとグラウンドからの脱出技術だけをひたすら磨いたことで、常に自分の得意なボクシングに相手を付き合わせて成功を収めた。そのスタイルに強烈なローキックを加えたのがフェザー級王者ジョゼ・アルドだ。そして今回敗北したアンデウソン・シウバは、若い二人のようなフィジカルとレスリング技術を持たないために、挑発と距離の支配で相手をスタンドに付き合わせ、一撃で相手を仕留めるスタイルで勝利を重ねてきた。彼らが勝るのは特定の局面であり、全局面で有利に運べるわけではないのだ。過去に名のあったファイター達もこのタイプが多く、そして今ニューカマーに負けているケースがとても多い。これからの時代はワイドマンと同じような、全ての面で戦えるファイターが王座を席巻していくだろうと思う。
P4Pと目され、世界最強の格闘家との呼び声高い男を歴史的なKOで沈めたアメリカンは、凶悪な面をした悪漢でも、アンデウソン以上に奇抜なスタイルを持ったトリッキーな選手でも、カウンターを狙って挑発を繰り返す喧嘩屋でもなかった。幼少からレスリングを学び、自身のヒーローに父を挙げ、毎日愛する娘とアニメを見た後に練習に行く、そんなごく普通の家庭で育った素朴で頭のいいアスリートだった。
ワイドマンのヒーローである彼の父は、仕事でも私生活でも誰かを蔑ろにすることなく困難を見事に切り抜け、あらゆる失敗の責を自分で負い、そして部下が困れば自分の事も顧みずに彼らのために行動する男だという。そしてそれは我が子でも同様であり、息子達の試合や学校行事などがあれば誰よりも喧しく、誰よりも情熱的なサポーターとなって応援に駆けつけてくれる、偉大なるアメリカン・ヒーローなのだ。彼の家族への大いなる愛はワイドマンにとって人生で最も尊敬すべきものであり、そんな愛がワイドマンを常に包んでいるのだ。きっとこの日の会場のどこかにもワイドマンの父がいて、誰よりも大きな声で声援を飛ばしていたのだろう。彼の息子は見事に仕事を成し遂げ、MMAで新たな伝説の幕を開けた。彼のこれからの王道は苦難に満ち満ちているだろう。アンデウソンが抱えた続けた重責を負い、彼は家族の愛と共にその道を歩み始める。
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ミドル級タイトルマッチ 5分5R
WIN 挑戦者クリス・ワイドマンvs王者アンデウソン・シウバ
(2R 左フック→パウンドによるTKO)
ワイドマンは王座奪取に成功
幻滅、幻が消え去るとき
子供の頃から大嫌いな瞬間がある。それはマジックの種明かしの瞬間だ。まるで魔法のように不思議なことが目の前で行われている。目を輝かせてそれを魅入り、この世界にはきっと魔法があるに違いない、自分もその魔法を知りたい、どうにかしてその真実を暴きたい、そう願って足りない頭を巡らしてトリックを分析する時、自分は最高に浮かれた気持ちでいたのを覚えている。不思議なことに、種がわからないことにこそ自分は喜びを感じていたのだ。
そして突如としてその種が明かされる。あれだけ知恵を絞ってもわからなかったトリックは、そのほとんどが言われてみれば当たり前というものばかりだ。自分があんなに知りたいと願っていたものが与えられたのだ、本来ならば小躍りをしながら喜ぶべきはずだ。だが、そういうときに自分の口を突いて出た言葉はいつもお決まりのセリフだった。
「なーんだ、そんなことか。つまんないの、がっかりしちゃった。」
アンデウソンが目を泳がせてマットに崩れ落ち、その顎に痛烈な拳が数発打ち下ろされ、哀れにも審判の足に縋りつく王者を見たときに、大勢の人間の口を突いて出たのもまたこのセリフだったのではないだろうか。がっかりしたことを表現する言葉に「幻滅する」というのがある。幻が滅びたとき、人は喜ぶべきことのはずなのに、不思議とひどく落胆する。まるで騙されていたほうが良かったとでもいうかのように。
なぜなのだろうか?理由は簡単だ、人は、「そんなこと」も見抜けない自分の出来の悪い頭と、それを有難がって崇拝していた情けない過去の自分自身に腹を立てるからだ。そしてすぐに、「そんなこと」で自分を欺いた張本人を詐欺師のように認識し、自分が注いだ期待と尊敬を慰謝料込みで取り返そうとするからなのだ。だから幻が滅びたとき、人は落胆し、そして相手に対して酷く腹を立ててしまうのだ。
アンデウソン・シウバ、7年に渡り王座を防衛するという大いなる魔法を成し遂げたUFCミドル級王者は、その日ついに己の魔法の種を明かされ、全世界から「幻滅」されることになった。
魔法の筆でケージの中に綴られ続けた奇跡のストーリー
アンデウソン・シウバ、UFC史上最長の防衛記録を持つ彼の戦績は、まるで駆け出しの作家が書いた脚本のようだ。あまりにもご都合主義で、そのKO劇はことごとく嘘臭く、鼻白むほどに大げさな演出をなされている。ある時は相手のパンチを見切り、相手の打ち終わりに下がりながら軽いジャブのようパンチを打ち込んでKOを取った。打たれた相手は壊れた人形のように手足をバラバラとさせながら崩れ落ちていった。またある時はお互いにらみ合い、これからパンチの応酬をするぞという時に、まるで悪ふざけのような虚を突いた下からの前蹴りで顎を蹴り飛ばしてKOした。蹴られた相手はまるで腰から下を突然無くしたかのように沈んでいった。もし私がこの脚本を提出されたら本をたたき返しながらこう言うだろう、「あまりにもリアリティがなさすぎる、格闘技に『魔法』なんてないんだぞ?」
だがこれは誰の脚本でもない。全ては真実、あの金網の中で本当に紡ぎだされたノンフィクションのストーリーだ。そしてそのストーリーを綴る魔法の筆を、いつしかアンデウソンはその手に握っていた。
スパイダーがUFCに参戦をしたのは2006年6月、今からちょうど7年前、彼が31歳の時だ。日本で一世を風靡した格闘技イベント「PRIDE」に重大な問題が発覚したとして、フジテレビが運営会社との関係を切ったのと同じ月のことだ。それまで格闘技界の中心だったイベントが終焉を迎えるキッカケが生まれた月に、その後世界の中心となる会社が飛躍する原動力となった人物がUFCに登場したのはなんとも皮肉な話だ。一つの時代が終わり、そして新しい時代が始まる。
彼が一番最初に始めたのは柔術だ。幼少の頃、近所の子供達が柔術を始めたのを眺めているうちに、彼もいつしか練習に参加するようになった。当時のブラジルでは、柔術の習得はエリートの行為であり、またブラジルでは貧しい子供達が生きていくには様々な困難がある、だから彼はそれを学ぶ必要があったのだという。決して洗練された練習ではなかったものの、彼にとってはかけがえの無い経験だった。その後カポエイラ、テコンドーと学び、最終的にムエタイに落ち着くことになる。
そして彼がプロになる前に触れたものの一つが、ヒーロー物のコミックスだ。特にお気に入りだったのが「スパイダーマン」で、彼は自身のヒーローを聞かれたときに、スパイダーマンを挙げている。彼の「スパイダー」というニックネームも、ここから来ているのかもしれない。
デビュー以来好成績を収めるも、2003年にPRIDEで高瀬大樹に敗れるとMMAへのモチベーションを失い、MMAを辞めようとさえ考えるがノゲイラ兄弟に説得されMMAに留まる決意をする。そして古巣のシュート・ボクセを離れてノゲイラ兄弟がいるブラジリアン・トップ・チームに移り、その後世界の各プロモーションに参加し、再び彼はキャリアを積み上げていく。(その最中、ランブル・オン・ザ・ロックにおいて、後にUFCで対戦する岡見勇信を蹴り上げでKOし反則負けとなっている。)
まるで武者修行のような20代を終え、様々な挫折と苦悩を経て、偉大なる師匠と信頼できる仲間を得た31歳のとき、前述の通り彼はUFCと契約することになる。この契約が彼とMMAに夢の国を到来させることになるとは、このとき誰も想像しなかったに違いない。ここから彼の、信じがたいサクセス・ストーリーが始まったのだ。
2006年6月、初戦でタフな殴り屋で知られるクリス・リーベンを試合開始後わずか49秒で膝蹴りによって撃破すると、続いて強豪のリッチ・フランクリンをまたしても膝蹴りで破り、その後強豪を次々と
撃破、世界で名を馳せた無頼の男、ダン・ヘンダーソンをチョーク・スリーパーで破るといよいよアンデウソン・シウバの勢いは止まらなくなっていく。
この頃からだろうか?スパイダーの試合の態度に、何か妙なものが見え始めたのは。元々コミカルな動きをする選手ではあったが、戦い方自体は比較的オーソドックスなムエタイだったような気がし
ていた。だがこの頃からスパイダーの動きには、どこか相手を挑発し、小ばかにするようなものが見え始めたのだ。極端に手数が減り、距離を大きく取って自分からは仕掛けないことも増え始めた。何しろ7年、7年間だ、余り鮮明には覚えていないが、確かこの頃からだったように記憶している。そして彼の打撃技術がいよいよもって悪魔めいたものになったのもまた、同時期のことだったように思う。
その極地はデミアン・マイア戦だ。打撃で明らかに勝り、ローやパンチでマイアはすっかり痛めつけられ、十分にKOできる情勢であったにも関わらず、アンデウソンは試合中に挑発を繰り返し、マイアの周囲を戦意がないかのように徘徊し、必死に向かってくるマイアを軽くいなしてはろくに反撃をせずにまた眺めだすのだ。あまりの傲慢さ、あまりの無礼さに観客はマイア応援一色になり、過去ここまで不愉快な光景は無かったというくらいに険悪な空気になった。スパイダーの技術は圧倒的、実力差は明白、そしてマイアは明らかに負傷していた。だからこれ以上相手を傷つけたくないとでも思ったのだろうか?真相はわからない、ただ一つ明らかにわかるのは、スパイダーの態度はケージの中にあってはならないものだということだけだった。
この件はMMAを愛するUFC社長デイナ・ホワイトを激昂させた。次に同じ事をしたら、二度とUFCに居場所はないと思え、誇り高く熱い戦いを愛する彼はスパイダーに警告した。彼の怒りは最もだった。誇り高き柔術スペシャリストのデミアン・マイアもまた、彼の態度には酷く腹を立てていた。当然のことだろう、KOされるのではなく、まるで戦うに見合わない弱者かのように扱われ、情けをかけられたのだ。アンデウソンの行為は、殺すよりも遥かに残酷な仕打ちだった。
そんな彼にオクタゴンの神が試練を与えたのか、次の試合は彼がUFCに来て以来最大の危機となった。対戦相手の名前はチェール・ソネン、自分をアメリカン・ギャングなどと嘯き、トラッシュ・トークで挑発を繰り返す、レスリングをバックボーンに持ったミドル級トップ・コンテンダーの一人だった。
チェール・ソネンはこれまでの選手とは違っていた。数年来、悪魔と契約したとしか思えない打撃技術を持ったアンデウソンを相手に、頭に血が昇って浮ついた足取りで対峙するしか出来なかった連中と違い、ソネンは確固たる意思と悪意を持ってアンデウソンの最も苦手な部分を突いた攻めを展開したのだ。それはストライカーの弱点の代表である、テイクダウン・ディフェンスだ。鬼のような形相で距離を詰めてはレッグ・ダイブを繰り返し、タックルを気にするアンデウソンの死角になる上方からオーバーハンドを振り回してはアンデウソンの顎を狙うソネンのスタイルは、アンデウソンのリズムを完全に破壊し、彼におどける余裕を一切与えなかった。彼は25分近くの間ほぼ大地に縫いとめられ、顔面を殴りつけられ、スタンドでもダウンを奪われるなど一方的な展開となった。このまま彼の防衛記録も止まるのか、誰もがそう思っていた。
しかし、スパイダーは最後の最後で奇跡を起こした。またしても転がされ、ガードの体勢でソネンのパウンドをかわしていた時のことだ。ソネンは明らかに判定を意識しつつあった。あとたったの1分ほどで彼の手にはベルトと名誉が手渡されるはずだ。たかが一分、ソネンの力量を持ってすれば相手に何もさせずに同じ状態を維持するのは容易いはず、だった。だがソネンがわずかに顔を下げた瞬間だ、スパイダーは長い手足をするりとソネンの頭に巻きつけると、あっという間にソネンを三角締めに捕らえてしまったのだ。必死に抜け出そうと身じろぎをするソネンだが、もう逃げ場は無かった。一度タップしかけて辛うじて思いとどまったソネンは、すぐに諦めてきちんとタップした。この逆転の魔法によって失いかけていた人心を再び一気に掌握し、さらにはこれまで以上の名声と尊敬、そして幻想を彼にもたらすことになったのだ。
その後のことは記憶に新しい。劇的なKOの連続、攻略する糸口すら見えないかのような試合展開、ケージ内をまるで我が家の庭のように扱う余裕ある態度、彼には誰も勝てやしない、たとえ彼に不利な要素を持つどんな選手を連れてこようとも。彼が手にした魔法の筆が織り成すストーリーはファンと選手にそんな幻想を抱かせ、そしてその幻想に人々は酔いしれていた。そんな中、いよいよその物語の総仕上げとして選び出されたのが、スパイダーの嫌がるものを全て備えていると評されていた「オール・アメリカン」クリス・ワイドマンだった。
道化の化粧の下に隠され続けた、臆病な蜘蛛の「素顔」
薄笑いを浮かべてかかって来いという仕種を繰り返しては、にじり寄るアメリカンの足に鋭いローを蹴りこんでいく。再び挑発しては、今度はアメリカンが少しでも深く踏み込んだら直撃するはずの蹴りが空を切る。スパイダーは、なんとか相手に毒の牙を突きたてようと死に物狂いだった。あれが余裕ある態度に見えるのならば、それは彼が顔に溶接してしまったピエロの鉄仮面のせいかもしれない。
1Rは散々だった。これは2回目のチェール・ソネン戦でも同様だ。開幕早々にタックルに来たアメリカンに容易く転がされると、そこから痛烈なパウンドを浴びる。ソネンと違うのは、そのパウンドの威力だ。何しろ体格がソネンよりも一回りも大きく、スパイダーよりも大きいのだ。蜘蛛の巣に収まりきらないアメリカンはスパイダーの拘束を逃れ、顔面に容易くパウンドを放り込む。フックの軌道で放たれるパウンドが、スパイダーの顎を弾き飛ばす。表情は涼しげだが、パウンドは逃げ場のないダメージを頭部にもたらす。ヘッドスリップが得意なアンデウソンも、押さえつけられて殴られれば同じ人類である以上確実にダメージを負う。彼がもし本当に不死身の神か何かならば別だし、彼にはまさにそういう幻想があったのも事実だ。しかし、彼が人間であることはこれ以降の動きで明らかになる。
ワイドマンのアームロック狙いから逃れ、際どい足関節も逃れてスタンドに戻ると、スパイダーは明らかに動きが悪くなる。口が開き、体からどっと汗が噴出すと、スパイダーはするすると金網際まで下がり、腰に手を当てて回復を図る。おどけたフリで時間を稼ぎ、なんとかガスを取り戻そうとしているのだ。しかし若きアメリカンはハートが強い。距離をつめ、金網を背負って相手の動きを見るアンデウソンに対して、何とアンデウソンの攻撃を待ち構えたのだ。まったくスパイダーの毒の牙を恐れていない。彼の体からは自信が溢れ出ている。絶対王者にこんな態度が取れる戦士がいようとは、想像すらできなかったことだ。
そのまま金網に押し込んだアメリカンは、頭を胸に付けて一度離れた後、右、左の逆ワンツーを放つ。この左フックが金網を背負うシウバには全く見えておらず、完全な直撃を許してしまう。
この後中心に戻ると、スパイダーは怒った様な素振りを見せてローを連発、これはかなりいいヒットをするもののワイドマンは全く動じずスパイダーから目を逸らさない。少し動きを止めたり、視線を外した後突然繰り出す不意打ちも全て捌き、パンチに至ってはアンデウソンのお株を奪うように顔面を突き出し、ボディワークでアンデウソンのパンチをヒョイヒョイと交わす。長いコンパスのハイキックもきちんと反応しブロック、そして続く強襲のフライング・ニーもキチンと捌き、続いて繰り出したアンデウソン本気のワンツーも距離を取って回避する。ワイドマンの自信の根拠は確かだった。ストライキングにおいて、ディフェンスではスパイダーを完全に凌駕しているのだ。むしろパンチが見えていないのはスパイダーだ。飛び込み右ストレートを被弾し、効いてないという素振りをするがダメージを逃がしてはいない。ブザー終了間際にも右ストレートを被弾して1Rは終了した。
2Rが始まると、スパイダーは過去最も激しい挑発を始めた。ガードをだらりと下げ、コイコイと手を振り、そして近づくワイドマンを相手に下がりながらいなそうとする。サークリングを繰り返し、ガードをかなり低く、時には完全にだらりと下げてしまっている。これが意味することは何か?
それは、アンデウソンがタックル・ディフェンスにかなりの部分を裂いてしまっているということだ。ノーガードは挑発のためだけではなく、すぐにタックルに反応できるように低めに腕の位置を設定しているのだろう。これでなければ、ワイドマンのタックルには反応が間に合わないのだ。2Rが開始すると1度、ワイドマンが早々にタックルにトライするがこれにはすぐに反応して切っている。ここでタックル・ディフェンスを徹底し、スタンドの状態を維持し続ければ、あとはストライキングのスキルで上回ればアンデウソンが勝利するはずだった。
しかしこの戦術で勝利をするには、アンデウソンには足りない要素があまりにも多すぎた。
まず一つ目がスピードだ。スパイダーが勝利を重ねてきた要因の一つに、他のミドルよりも体にキレがあり、スピードがあったことがある。パワーよりもスピードを重視し、過剰にバルク・アップをしない彼の動きは非常に速く、それがゆえに距離を取ってはカウンターをあわせるスタイルがとてもよく合っていた。しかしそれは一方で差しあいで不利になり、タックルを切る際にもパワー負けして引きずり込まれる可能性が高くなることとセットだ。スパイダーのテイクダウン・ディフェンスの悪さは、ここでのパワー負けによるものも大きかったと思う。しかし恐るべきことに、このアメリカンはパワーで勝るだけでなく、スピードもまたスパイダーに匹敵するものだった。ハンド・スピードではアメリカンのほうが勝っており、アンデウソンは反応が遅れることが多かった。このバランスの良さは、同じレスリング・エリートでありスピード、パワーを最高のバランスで維持しているヘビー級王者ケイン・ヴェラ スケスととてもよく似ていると思う。
次に、ストライキング・スキルで上回れなかったことだ。今までの対戦相手に比べても、アメリカンはずっと目がよく、特にディフェンス面において相当に優れていた。スパイダーに臆することもなくよく見ており、決して距離を見誤らずに安全圏を維持しては、隙を見て前に出てくるアメリカンのスタンド・テクニックに対してスパイダーは五分か、それよりも劣っていた。必死にローで削り、挑発を繰り返してディフェンスを崩そうとしたスパイダーだったが、それでも結局ワイドマンは崩れなかった。恐らく単純なムエタイだけならスパイダーが勝ることもあったろう、しかしスパイダーは自分の天敵である「レスリング」を恐れるあまり、ストライキングに必要な構えや足の位置、距離をほぼ生贄に捧げてしまっていた。これでは彼に勝てないだろう。また、ディフェンス面でも反応がかなり悪く、ワイドマンの左フックは結局最後までまったく見えていなかったように思う。スパイダーは決して目がそこまでいいわけではないのかもしれない。
そして最後に、自分はこれが恐らく最大の要因だろうと思っているが、スパイダーは体格において負けていたことだ。長い手足とそれを用いたムエタイの制空圏は非常に広く、体格で劣る選手たちはスパイダーの巣の中で巣の持ち主を捕まえることはできなかった。その距離があるからこそ、相手の攻撃を神がかり的に回避することもできたのだ。身長で勝ったのは岡見勇信だったが、蹴りをあまり使えずタックルもそこそこくらいのレベルだった彼はスパイダーには届かなかった。しかし今回の対戦相手はスパイダーよりも大きくリーチも見劣りしない、そしてスピードのあるタックルはスパイダーのパンチの距離よりも長く、辛うじて蹴りでぎりぎり上回れるくらいだ。何よりも鋭いステップ・インで繰り出されるワイドマンのパンチは、スピードと距離でアンデウソンよりも優れていた。距離の制し合いこそがアンデウソンを勝利に導く最大の要因であり、そしてそこで上回れなくなった時、スパイダーの魔法は解除され、絶対無敵の不死の王者、スーパーヒーローとしてのスパイダーの姿は消え、地下室の隅で震える哀れな蜘蛛の姿が露になる。
スーパーヒーローの最後は無残だった。挑発に動揺しないワイドマンが自信を漲らせて距離を維持する。まず繰り出された左フックがスパイダーの頬を掠めると、アンデウソンは効いたかのような素振りでおどけてみせる。しかしアメリカンは動揺しない。さらに自信を持って素早くステップ・インして同じ軌道の左フックを放つと、これが軽くスパイダーの顔面を捉える、その刹那スパイダーの腰がぴたりと止まる。恐らくこれが効いたのだ、さらにステップ・インしてツーのオーバーハンドをスウェーでかわすスパイダーに、返す刀でワイドマンは打ち下ろした右拳をすぐさま上方へ跳ね上げてバックハンド・ブローを狙う。スパイダーのお株を奪うこの奇襲をさらなるスウェーでかわした時、スパイダーの魔法は解け、完全に無防備な、もはやどこにも逃げ場の無い哀れな蜘蛛が姿を現した。
少し無茶な体勢だったアメリカンは、ここですぐさま体勢を起こしてさらにもう一歩左足を踏み込んで、三度同じ軌道の左フックを叩き込む。
戦士の表情を満面に浮かべたアメリカンの、力強い左フックが死に体となったアンデウソンの頬に叩き込まれたとき、7年間の夢の時間は終わりを告げ、馬車はカボチャに戻り、王者は空ろな目で天井を仰ぎ見た。彼の目に、空に輝くスポット・ライトの星達は映ってはいなかったかもしれない。一つの時代が終わり、そして新しい時代が始まる。
この敗北は、あまりにも多くの人々を幻滅させる結果となった。スパイダーは己の力を過信する余り、ワイドマンに対してふざけた態度を取りすぎて自爆したのだ、これではMMAを見始めた人が競技を誤解する、こいつはまったくもってクソッタレだ、選手の一部はこう非難した。試合後の観客達も大ブーイングだった。謙虚にワイドマンを褒め称え、自分の時代は終わったのだと語るアンデウソンに対して、観客達は明らかに怒っていた。全力を出し切らずに負けたように見えるアンデウソンに対して、消化不良を感じていたのだろう。ブーイングの最中、わずか一瞬だったが、アンデウソンの表情にとても繊細で悲しそうなものがよぎったような気がした。
だが、私には皆が何に怒っているのかわからない。スパイダーのファイト・スタイルは、あれで勝つからこそ賞賛されたのであって、あれで負ければこれほどに無残なのはわかりきっていたことだからだ。そしてあのファイト・スタイルは、決して傲慢だからでも、相手を舐めているからでもない、勝つためにやっていたに過ぎないのだということを、彼の負ける様を見て完全に理解できた。彼は道化を演じることに死の物狂いであったのであり、道化たる努力とは、実れば実るほどにその努力は見えず、彼の真実は化粧の下に隠れていくのだ。彼の化粧が全て落ちてしまった今、そのことがはっきりとわかる。
38歳という高齢であり、シェイプは徹底的に絞り込んだものではなく、レスリングはからっきし、そして決して打たれ強いわけでもない。いくらスタンド・テクニックに優れているとはいえ、勝ち続けるにはあまりにも厳しい条件がそろっている。その中で勝ち続けるために彼が導いた答えこそが、オクタゴンの中で繰り広げた一世一代の道化芝居だったのではないだろうか。真っ向勝負で勝てないことがわかっていながら真正面から小細工なしで挑むのは勇敢ではない。自分に酔った、自己満足 のためだけの変態行為だ。勝ちが目的のスポーツで勝てない戦略を採用するのは愚かであり、致命的にセンスがないことだ。
同じような選択をした選手を思い起こせば、皆曲者揃いだ。ヘビー級のトリック・スター、「ビッグ・カントリー」ロイ・ネルソンは、たるんだ腹と小柄な体格のままヘビー級で勝ち続けるためにオーバーハンドという技を極めた。レスリングとフィジカルがいまいちでボクシングが得意なディアズ兄弟は、己の顔面を狙わせてそこにカウンターを当てるために男らしさを前面に出したキャラをつくり、試合前から執拗に殴り合いをするように仕向けていった。特異なスタイルを持つ選手は全て、己の弱点を補うためにそうなったのであって、決して性格的なものだけでやっているわけではないのだ。ただ体を鍛えるだけが努力ではない。
スパイダーは自分の顔面を狙わせて、自分の苦手なスキルを持ち込ませないために道化芝居を極めたのだ。冷静さを失った人間は脆い。頭に血が昇れば人はつい拳で相手を殴りつけようとするし、体に力が入って硬くなる。周りが見えなくなれば、カウンターの威力は何倍にもなっていくだろう。31歳でUFCに初参戦し、そこで日々高まっていく自分への評価と期待、そして日々衰え続けていく自分の肉体を前にして、スパイダーが知恵を振り絞った結果として、あのファイト・スタイルがあったのではないかと思っている。あるときを境に変わりだしたスパイダーのスタイルは、恐らくこのやり方に気づき、それを実戦の中で形にしていく過程だったのではないだろうか?体格や加齢は、合法的な努力ではもはやどうにもならないものだ。ここが原因で負けるのならば大人しく現実を受け入れて負け続けるか、引退するか、非合法な手段に手を出すか。それか、誰も考えつかなかったような奇策に出るしか手段は残されていない。そしてアンデウソンは奇策を選んだ。他にやりようなどなかったのかもしれない。
何が努力だ、という人もいるだろう。だが考えてみて欲しい。もし自分がファイターだったとして、果たして金網の中で道化芝居を演じることが出来るだろうか?目の前には自分を痛めつけるためだけにトレーニングを積んできた奴が立っている、周りにはだれも助けてくれる人はいやしない、そして金網が閉じられれば、自分が負けを認めるか何もわからなくなるまで、そこから出してもらうことはできないのだ。その周りには、自分達の戦う様を好奇の目で眺める無数の観客達がいる。彼らは熱い戦いを、激しいKO決着を望んでいる。この状況で、まるでピエロのように振舞って相手を挑発し、ひどく無防備な状態のままで怒る相手の攻撃をかわし、さらに観客の大ブーイングを一身に受けるなど-もしかしたら明日にも仕事を失うかもしれないのだ-自分にはとてもできやしない。多くのファイターも同様だろう。一生懸命戦うほうがどれほど楽かわからない。大勢が歩く道から外れることが、いかに勇気の要る行為であることか。
並外れて優れていることを英語でアウトスタンディングというが、群れから離れて立つ行為はそれだけ困難なことなのだ。それができるようになるには、並大抵の努力では無理だろうと思う。勝てないだけならまだいい、スパイダーの選択は、負けでもしたらどれほど叩かれるかわからないし、勝ったとしても相手選手に対して礼を失しているとしてどれほど非難されるかもわからない。挙句の果てには、八百長試合の可能性まで囁かれるのだ。これほどリスキーで恐ろしい選択肢はないだろう。
そしてそんな恐ろしい選択をしてでも、スパイダーは金網の中に残りたいと願ったのだ。彼がどれほどに敗北を恐れていたのか、私には計り知れない。しかし彼は明らかに怯え、いつも必死だったのは間違いないだろう。試合前に過剰に腰を低くし、笑みを見せたりおどけてみせるのも、彼は全力で、死に物狂いで道化を演じていたからではないだろうか。だからこそ、チェール・ソネンが、試合前から挑発し続けて自分の化粧を剥ぎ取ろうとするのにいらつき、焦り、挙句の果てに試合前のステア・ダウンで肩で殴りつけるほどの行動に出てしまったのだ。史上最も手ごわいとされ、プロ・ファイターが軒並み自分の敗北を予言するクリス・ワイドマンを前にしたとき、なんとかアドバンテージを得ようともがき苦しんだ結果、相手を混乱させようとステア・ダウンでアメリカンにキスをしてしまったのだ。
決して余裕がある行動などではないと思う。彼は怯え、負けることを恐れるあまりに、あがいた結果としてああいう行動で精神的に揺さぶろうとしていたに過ぎないのではないだろうか。攻撃衝動の根源は勇気ではない。恐怖であり、だからこそ臆病な人間ほどMMAに向いているのだ。そしてアンデウソンの素顔は、きっととても臆病なのではないかと思っている。それを道化の化粧で隠し、余裕があるかのようにハッタリをかまし、相手を挑発して冷静さとスタミナを根こそぎ奪いつくして勝利する。彼が努力して化粧がうまくなるほどに、誰も彼の努力を理解せず、彼のことを天才だ、神のようだ、種も仕掛けも無い魔法に違いないと褒め称える。彼の苦悩や孤独や恐怖は、この結末を迎えてもなお、理解されることはないのかもしれない。
魔法の解けたスパイダーは、それでも金網に巣を作る
賛否両論を巻き起こした敗北のあと、アンデウソンは言った。自分の時代は終わった、そしてベルトを懸命に追うことはないが、引退はしないと思う、と。
彼の戦い方は先に述べたように苦肉の策だったのではないかと思うし、真っ向勝負では勝てないからこその選択だったのはシウバのコメントや態度からも明らかだ。彼自身、もう限界であることを知っていたのは間違いないだろうと思う。今回の試合でもたった1Rのグラウンドの攻防でスタミナは底を突いていたのだ。若い選手を相手にもはやフィジカルでついていけないのは明白だ。しかしあれだけ無残な最期を遂げたスパイダーが、それでもまだ金網に残る意思を見せたのは意外だった。自分はきっと引退するだろうと思っていたからだ。
試合前、アンデウソンが敗北をした場合にはすぐにリマッチをする、その権利が彼にはあるとUFC社長デイナ・ホワイトは明言していた。だがスパイダーはそれを望むだろうか?ホワイトはその必 要性を感じているだろうか?それはわからない。また彼にはスーパーファイトの可能性も残されている。今はまだ7年ぶりの敗北に色々と思うこともあるだろう。結論が出るのはまだ先のことかと思
う。
アンデウソン・「スパイダー」・シウバ、彼の魔法の筆は折れ、多くの人は彼に幻滅しただろう。彼のサクセス・ストーリーは最悪のエンディングを迎えたと言う人も多いだろう。だが自分はそうは思わ ない。彼が選んだファイト・スタイルに相応しい負け方であり、他人が選ばない道を進んだ人間の結末は、いつだって想像がつかない結末を迎えるものなのだ。彼が勝つために繰り返してきた、多くのファイター達への侮辱の代償でもあるだろう。
道化の最後は常に滑稽なものだ。31歳という高齢から始め、7年間防衛という遥かにありえない偉業には一切八百長などを疑いもしなかったくせに、道化が哀れにも玉から転げ落ちた途端にやらせ試合だなどと言い出す輩もいるらしい。とんだクソッタレだ。腹を立てるなら、勝手に神格化して勝手に幻滅する、自分の出来の悪い脳みそに立てるべきだ。しかしきっとスパイダーは言い訳などしないだろう。覚悟して選んだ道だろうからだ。彼は己の全てを白塗りの化粧の下に隠し、笑みを含んだ分厚い唇だけを見せながら、その下で何を考えていたのだろうか。それは彼以外、世界中の誰にもわからないことだろう。
それでも彼が試合後すぐに引退しない旨を表明したのは、負ける恐怖も世間からの非難も越えて、純粋にMMAが好きだ、戦うことが好きだという気持ちがスパイダーの中にあるからに他ならない。何一つ真実を見せない道化が見せた、たった一つの真実だ。そしてまた、たとえどんな結末を迎えようと彼が見せてくれた芸術的な戦いと、それに心躍らせ続けた自分の気持ちに偽りはない。彼の見せてくれた魔法は今も自分の心に焼き付いている。それだけで十分だ。今は7年間背負い続けた、あまりにも重くなりすぎたベルトを若き王者に託し、ひと時の安らぎを得てほしいと思う。千の夜を乗り越えて走り続けたスパイダーに訪れる夢が、喜びの魔法に満ちた素敵なものであらんことを。
毒蜘蛛退治を依頼された最後の勇者「オール・アメリカン」
UFCミドル級は長い間毒蜘蛛が王座を占拠し、人々はすっかり困り果てていた。そして我こそはという勇者を送り込んでは、皆屍となって帰ってきた。それが7年間も続いてきた。あるときはTUFという競技会で好成績だというものを送り込んだ。彼は毒にやられたのか、混乱しケージから走って逃げてしまった。町を訪れた無頼の賞金稼ぎは、腕が入る隙間も無いと思われた太い首に長い腕を巻きつけられて窒息させられてしまった。遠い島国から来た青年は、一瞬の隙を突いた攻撃を受けてすっかり正気を失い、その後何度も毒針を突き刺されて完全に体の自由を奪われた。人々はいつしか毒蜘蛛を崇拝し、いっそ最後まで彼に王座に居座ってもらおうとさえ思い始めていた。そんな中現れたのが、ミドル級最後の勇者「オール・アメリカン」クリス・ワイドマンだ。かつて最も毒蜘蛛を苦しめた、町のギャングを自称するインテリ戦士チェール・ソネンは、彼が負けたらもう毒蜘蛛退治のできる人間は存在しない、そう明言した。
実際、そのアメリカンの試合前評価は高かった。毒蜘蛛の毒にやられて惑わされた私を含む一般大衆の予想とは裏腹に、戦いの心得があり、かつワイドマンを知っているファイター達は軒並みこのアメリカンが勝つことを予想していたのだ。ウェルター級の金網の支配者「ラッシュ」ジョルジュ・サンピエールはこのアメリカンを「スパイダーにとって最悪の相手」と評し、皆が私に期待している毒蜘蛛退治はないだろうと答えた。軽量級の勇者フランキー・「ジ・アンサー」・エドガーの出した答えもまた、このアメリカンだった。フランキーは言った、クリス・ワイドマンは「完全体」であり、彼には全てがそろっている、だから負けるはずはないのだと。盲目の羊達は、彼らがきっと試合を盛り上げるために言っているのだろうと思った。だってスパイダーは、これまでもそういう触れ込みで送り込まれたファイター達を、みんな返り討ちにしているのだから。
このアメリカンのMMAキャリアは浅い。MMAを始めたのは2009年、今からたった4年前のことだ。三人兄弟の次男として生まれた彼は、一つ上の兄とともにあまりにもやんちゃで元気があり、困り果 てた両親が彼らを疲れて動けなくさせるためにレスリングを学ばせたのが、彼のアスリート経歴のスタートだ。若くしてレスリングを学んだ彼は、大学に至るまでレスリングを続けてオール・アメリカ ンに二度選出され、他にも各レスリング大会で優勝した経験のあるレスリング・エリートだ。
彼はニューヨークのホフストラ大学でレスリングを続ける傍ら、体育の修士号と心理学の学士号を取得した。そして在学中、あるMMAファイターと出会い、彼にレスリング・コーチとして招かれたのが セラズ・BJJ・アカデミーである。彼はそこでレスリングを教えながら、自分もまた柔術を経験し、わずかな期間でメキメキと頭角を見せ始める。そして心の片隅で柔術に未練を残しつつ、卒業後はそのままホフストラ大学でレスリングのアシスタント・コーチの仕事に従事し、一方でオリンピックのトライアルに備えた練習をし続ける。だがその夢は破れ、彼はこのままオリンピックを目指し続けるのか、それともずっと気にかかっていたMMAに進むのかを決断しなければならなくなった。そして彼は、MMAへの道を歩むことを決意した。25歳のときだ。
その後リング・オブ・コンバットというローカル団体で2年間で4試合を経験したあと、彼はUFCと契約をする。2011年のことだ。それからUFCで経験した試合はわずかに5試合、そのうち強豪と言われるのはたったの二人だった。一人はデミアン・マイアという柔術のスペシャリストであり、もう一人はパワフルなレスリングとフィジカルを持つマーク・ムニョスだ。特にムニョス戦では圧倒的な実力差で勝利したものの、彼の実力を計りきるには不十分だった。MMAキャリア無敗とはいえ、20年近くに渡り36戦を経験しているスパイダーと比べれば、その経験は無いに等しい。彼がオッズで圧倒的に不利なのも無理からぬことだった。
全てを備えたアメリカン、全局面で絶対王者を圧倒
試合前、ワイドマンは語っていた。MMAを始める以上トップにならなければ意味が無いし、始めたときから自分は同階級の王者を倒すことを考えて練習してきたのだ、と。全ての対戦相手の後ろに、 彼は常に王者の姿を思い描いていた。そしてキャリアを積み重ねならが、いつも王者を倒す方法を思案していたのだ。
そして彼が出した結論はこうだ。まずスパイダーには弱点がある。それはチェール・ソネン戦で明らかになったことだ。まず彼はレスリングができない。だがソネンは柔術がまったくだめだった。自分 は柔術に自信があるし、これがスパイダーを倒す鍵になる、と彼は語った。事実、クリス・ワイドマンは柔術で全米王者にもなっているほどの実力者だ。これまでにもサブミッションで試合を極めたこ とは多い。なるほど、ソネンよりも有利な武器がまず一つある。
次に、アンデウソンの本質は試合前にある、というのだ。スパイダーはケージに上がる前の段階で、対戦相手を精神的に破壊し、ケージの中でプレッシャーを与えて相手をすっかりおかしくしてしまうのだと。だから彼は試合前に絶対に相手に飲まれないこと、そして試合中に絶対に相手に対して心を乱さないことの重要性を語った。思い返せば、確かにスパイダーは試合前から妙に物腰低く、まるで戦意がないかのように振舞うかと思えば、ケージの中では一転まるで天才のように振る舞い、相手を侮辱し、ひどく攻撃的になって相手のペースをめちゃくちゃにし、焦らせようとしてくる。
最後に、彼は自身のフィジカルの強さを挙げた。レスリングで鍛えあげた彼のカーディオはタフで、スタミナではアンデウソンに勝っている、と。ワイドマンは若くまだ29歳、それもついこの間までオリンピックを目指してトレーニングしていたのであり、かたやアンデウソンはもう38歳と肉体的に下り坂であり、アスリートとして活動できる限界に近い年齢だ。そしてワイドマンは自信ありげにこう締めくくった、この試合では自分に有利なものがたくさんある、理論的に言えば、自分が負ける要素は無いのだ、皆もそれは認めざるを得ないだろ?勘違いした若者の大風呂敷か、それとも冷静に現実を俯瞰したうえでの結論か、後は二人をケージに入れた後の科学反応を待つのみとなった。
果たして、ホフストラ大学出身のレスリング・エリートは正しかった。彼の下した結論は、寸分違わずそのとおりとなった。
試合開始前、スパイダーはまず拳を合わせようとするワイドマンを無視する。明らかにわざとだ。スパイダーはさっそく心理的に揺さぶりをかけてきている。試合が開始されると、ここでもアンデウソンはハイタッチを拒否して距離を作り始める。対するワイドマンは、様子を見ながら、早い段階でタックルにトライした。頭を相手の股の下に突っ込むようなタックルから、掬い上げると片足を引いて横に落とす。素晴らしいレスリング・テクニックだ。これが極まるとあっさりとスパイダーは大地に転がる。ここまでは予想通りだ。
ここからが違った。長い手足を持つスパイダーの下からの仕掛けは、これまで多くのレスラーを絡め取って苦戦させてきた。ソネンはこの手足に絡め取られ、中々有効なパウンドを放つことが出来 ず、使ったガスに見合うだけのダメージを与えられないまま、結果的にスタンドでスタミナ不足のところを狙い撃ちされる羽目になった。だが、下からの仕掛けは体格で勝るからこそ可能だったに 過ぎないのだ。自分よりも大きい体躯を持つワイドマンは、ガードから容易く体を起こすと、もうそこは十分に強いパウンドが放てる距離だ。ワイドマンはそこからスパイダーの顔面に重いパウンド を打ち込んでいく。スパイダーの顎が殴り飛ばされ、乾いた音が響き渡る。どう見てもまずい当たり方だ。これで効かないわけがない、というパウンドの入り方だった。
そこから何とかシウバは柔術を仕掛けようとする。しかし柔術の心得があるワイドマンは、それに対処しつつレスリングと柔術を高次元で融合させたスキルを余すところ無く発揮した。ポジション維持と相手のコントロールにレスリングを使い、いいポジションが取れるとそこからすぐに柔術を仕掛けて極めようとしてくるのだ。レスリングの出来ないスパイダーは巧くコントロールされて立ち上がることができず、隙を見てはパウンドを放つワイドマンを相手に防戦一方だった。それに対してワイドマンは、ポジションを作っては次々に攻めてくる。ハーフを取った状態から、抵抗しようとうるさい腕を捕まえてアームロックを探り、シウバが反応すればまたハーフに戻して鉄槌を振り下ろす。見事な支配力だった。
そしてその中で最も惜しかったのが膝十字だ。ディフェンスしようと足掻くスパイダーの一瞬の隙を突いての膝十字はかなりいい形だったが、これは惜しくも外れてしまう。過去アンデウソンの数少 ない敗北の一つは足関節によって生まれている。ワイドマンがそれを研究していたのかは知らないが、相手の予想を裏切る見事な奇襲だったろう。技を解いたシウバを、今度はすぐさまヒール・ホールドに切り替えてまた絞り上げていく。これもいい入り方だ。この男の商品棚には置いていないものがない。全てを揃えたという表現は、決して誇大広告ではなかったのだ。
1R、結局シウバは一方的にやられ続けた。それはソネン戦でも同様だったが、違うのはダメージの量だ。ワイドマンのパウンドははっきりいってKOを狙えるほどの威力であり、ソネンの削りを目的としたパウンドとは質が違うものがあった。これで顔を殴られ、足を壊されかけ、常にグラウンドでコントロールされたシウバはスタミナもごっそり失った。そして本来ならば優位に立っているはずのスタンドでも、ワイドマンに怯む気配はまったくない。金網を背負って足を止めての挑発を前に、なんとアメリカンも足を止めて、スパイダーがかかってくるのをじっと待ち続けたのだ。これにはスパイダーも相当に肝が冷えたことだろう。さらには蜘蛛の巣を背負った大好きなこの場所で、強烈な左フックまでプレゼントされている。
2R開始直前、何やらをワイドマンに向かって喋りかけ、鬼気迫る顔でかかってこいという仕種をするシウバの様子は、彼がどれほど追い込まれているのかを物語っていた。
2Rが開始すると動きはさらに道化じみてくる。挑発を繰り返してはローで足を狙う。相手には顔を狙わせて、自分はローで削り続ける。さすがの試合巧者であり、この狡さと、それを堂々と実行できるのがアンデウソンの強さでもあるのだ。さらには立ち技で禁忌とされている関節蹴りまでも打ち込んでくる。何もかもを引っ張り出して戦う腹積もりだ。スパイダーは明らかに窮地に立たされていた。
あの手この手で揺さぶろうとするスパイダーだが、このアメリカンには「全てが揃っている」のだ。全ての中には、当然メンタルの強さも含まれている。このアメリカンの心には、図太い金属の主柱が ずどんと一本打ち込まれていた。この頑丈さはきっとNASAが製作した特殊金属を使用したものだろうと思う。彼はスパイダーが何をしようと、まったく慌てたりしないのだ。奇襲攻撃にも反応して尽く 回避しており、アンデウソンの不意打ちに当たることは一度も無かった。素晴らしいディフェンスだ。
アメリカンは挑発に動じることなく果敢にスタンドで攻め続けた。アンデウソンは無理な攻めで体が泳ぐ瞬間と、無理なタックルを繰り返してスタミナを消耗することを望んでいたと思っている。だからあそこで無理にタックルに行かなかったのは好判断だ。2R開始直後のタックルを防がれたときに、スパイダーが罠を張っているのに気づいたのかもしれない。もしあの展開で挑発に嫌気が差し、スタンドを嫌ってタックルに行けばワイドマンに重大な危機が訪れていた可能性は高いと思っている。たぶんスパイダーは相手がどこかで挫けてタックルを連発してくると予想していたのではないだろうか?だがワイドマンの心は強く、タックルには逃げなかった。相手がディフェンスの準備をしているところに無理にタックルに行き続ければ、せっかくたっぷりと残っているガスをどぶに捨てることになる。スタミナが減ってディフェンスが甘くなれば、一撃を受ける可能性は跳ね上がるのだ。
そして運命のときが訪れる。お互いが足を止めた状態で、ワイドマンは前に出る構えだ。一方でアンデウソンは、すでに軽くスウェー気味でワイドマンに打ってこいと挑発をしている。そこに左フッ クがまず一発、おどけるアンデウソンにステップ・インをしてさらに一発、少し怒ったワイドマンが放った予想外の裏拳に、とっさにまたスウェーをしてしまったスパイダーの顔面にさらにもう一発の左 フックが放たれると、スパイダーの目が飛び、これまで彼がKOしてきた選手達のように腰から砕けてマットに崩れ折れた。
すかさず追撃をしてハードなパウンドをたたきつけるワイドマンには一瞬の油断も無い。アンデウソンの目が虚ろになり、ぼんやりと天井を眺めだすとハーブ・ディーンはすぐさま止めた。
若きアメリカンはすぐに手を止めると、マウス・ピースを取りだして金網にたたきつける。必死に我慢を続け、相手に負けないように抑え続けた心の動きを、彼はここぞとばかりに解放したかのよう に喜びを爆発させた。一人のヒーローがこの夜に誕生した。この夜のワイドマンは、スパイダーが憧れ続けたアメリカン・コミック・ヒーローそのものだった。
伝説の終焉とニュータイプ・レスラー時代の幕開け
今回の勝因は複数あれど、一番の原因はスパイダーが体格的なアドバンテージを失ったことを指摘したいと思う。これまでのスパイダーのストライキングは蹴りを使った圧倒的なリーチの維持であり、その距離があるからこそ弱点のタックルを抑止できていた面は大きいだろうと思う。そして仮に寝かされたとしても、その長い手足を使ったガードワークで相手に何もさせずにスタミナだけを消費させることもできたのだ。しかしそのアドバンテージを失い、かつ相手が最も苦手とするレスリングを極め、さらにムエタイでもアンデウソンと対峙できるレベルであったとき、アンデウソンが安全に攻撃できる手段はなくなってしまったのだ。ワイドマンの打撃を見ればわかる。ワイドマンは攻撃の時、常に重心が安定し、前に出るときにちゃんと足がついて来ている、そしてその体勢でパンチを打つからKOするのに十分なパワーがあったのだ。もしリーチ差があれば、大胆なステップ・インをしすぎてカウンターの餌食になるか、無理に腕を伸ばして足がついていかずに体が泳ぐかのどちらかになってしまうだろう。
もしアンデウソンがハングリーに、テイクダウンを恐れずに削りを中心とした昔のような打撃戦を展開すればまだ勝機はあったかもしれない。しかしそれを選択すれば、ワイドマンのタックルを防ぐ手段はアンデウソンにはない。そしてグラウンドで明らかに差があること、ワイドマンにグラウンドでスパイダーを仕留める武器が大量に備わっていること、何よりも1Rのグラップリングで早々にスタミナを使い果たしてしまったことを考えれば、どのみち結果は同じだったように思う。殴られるのがスタンドかグラウンドかだけの違いだろう。
最も、もしワイドマンのメンタルがもっとヤワだったら、負けていた可能性もあっただろう。それくらい今回のアンデウソンの挑発はめちゃくちゃだった。会見をボイコットするだけではなく、ステア・ダウンでキスをしたり、グローブをあわせなかったり、試合中何事か喋りかけたり、笑いながらやれやれという仕種をしたり。観客の自分のほうがワイドマンより先にキレてしまいそうなほどに、アンデウソンは挑発に必死だった。あれをすべて潜り抜けて勝利したワイドマンのメンタルは信じがたいものがある。彼は大学で心理学の学士号を取得しているが、もしかしたらアンデウソンのそういう行動は恐怖の表れであることを知っていたのかもしれない。
現在、各階級では選手の大型化が進んでいる。動ける限界まで絞り込んで、より体格で勝った状態を作り出したほうがMMAでは有利なことが明らかになったからだ。それは同大会で行われた一つ前の試合、エドガーvsオリベイラでもよくわかるはずだ。距離が遠く、グラウンドの展開があるMMAでは、体格の差は大きな差となるのだ。今その体格を最大限に活かしている王者にライトヘビー級のジョン・「ボーンズ」・ジョーンズがいるが、彼がヘビー級に階級を上げたら途端に勝てなくなる可能性があることをスパイダーの敗北は示唆しているような気がする。最もボーンズはレスリング・エリートだ。タックルを防げる上に自分にもタックルの選択肢がある以上まったく同じとは言わないが、自分と同じ距離でスタンドを展開できる選手が登場したらそれだけでボーンズはかなり勝率を下げる可能性は高いだろう。
そしてワイドマンの登場は、これからUFCを席巻する選手のタイプを決定付けたと思う。それは「オール・アメリカン」ならぬ「ホウル・アメリカン」とも言うべき選手の形だ(この言葉の使い方は間違っているかもしれないのでご了承ください)。完全体、全てを兼ね備えたレスリング・エリートの時代の幕開けである。その先駆者は今回ワイドマンの勝利を予想したフランキー・エドガーとGSPの二人である。彼らは素晴らしいカーディオを持ち、スタンドでの卓越したボクシング・スキルとタックル、そしてローキックで相手に選択を迫り、ディフェンスを散らせて有利に展開する。それをさらに推し進めたのがヘビー級王者「ブラウンプライド」ケイン・ヴェラスケスだ。彼はボクシング、レスリングに加えてずば抜けたムエタイのテクニックを持ち、クリンチでの攻防とさらには相手を沈めるKOパワーも持ち合わせている。そしてそれにさらに柔術を加えたのが今回王者となったクリス・ワイドマンと言えるだろう。ムエタイ、ボクシング、柔術、レスリング、そして優れたカーディオとグッド・シェイプ、さら
にその階級では大きな体格。およそ隙らしい隙がない、全局面で戦えるファイターだ。
これまでは自分が得意とする局面に持ち込む手段を持つ選手が強かった。ブラジル系ファイターは概ねそうだ。元ヘビー級王者ジュニオール・ドス・サントスはタックル・ディフェンスとグラウンドからの脱出技術だけをひたすら磨いたことで、常に自分の得意なボクシングに相手を付き合わせて成功を収めた。そのスタイルに強烈なローキックを加えたのがフェザー級王者ジョゼ・アルドだ。そして今回敗北したアンデウソン・シウバは、若い二人のようなフィジカルとレスリング技術を持たないために、挑発と距離の支配で相手をスタンドに付き合わせ、一撃で相手を仕留めるスタイルで勝利を重ねてきた。彼らが勝るのは特定の局面であり、全局面で有利に運べるわけではないのだ。過去に名のあったファイター達もこのタイプが多く、そして今ニューカマーに負けているケースがとても多い。これからの時代はワイドマンと同じような、全ての面で戦えるファイターが王座を席巻していくだろうと思う。
P4Pと目され、世界最強の格闘家との呼び声高い男を歴史的なKOで沈めたアメリカンは、凶悪な面をした悪漢でも、アンデウソン以上に奇抜なスタイルを持ったトリッキーな選手でも、カウンターを狙って挑発を繰り返す喧嘩屋でもなかった。幼少からレスリングを学び、自身のヒーローに父を挙げ、毎日愛する娘とアニメを見た後に練習に行く、そんなごく普通の家庭で育った素朴で頭のいいアスリートだった。
ワイドマンのヒーローである彼の父は、仕事でも私生活でも誰かを蔑ろにすることなく困難を見事に切り抜け、あらゆる失敗の責を自分で負い、そして部下が困れば自分の事も顧みずに彼らのために行動する男だという。そしてそれは我が子でも同様であり、息子達の試合や学校行事などがあれば誰よりも喧しく、誰よりも情熱的なサポーターとなって応援に駆けつけてくれる、偉大なるアメリカン・ヒーローなのだ。彼の家族への大いなる愛はワイドマンにとって人生で最も尊敬すべきものであり、そんな愛がワイドマンを常に包んでいるのだ。きっとこの日の会場のどこかにもワイドマンの父がいて、誰よりも大きな声で声援を飛ばしていたのだろう。彼の息子は見事に仕事を成し遂げ、MMAで新たな伝説の幕を開けた。彼のこれからの王道は苦難に満ち満ちているだろう。アンデウソンが抱えた続けた重責を負い、彼は家族の愛と共にその道を歩み始める。
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初めまして
返信削除自分は手品のタネすごく知りたい方だなぁ…当たり前の事に気づかない事で、いろいろ考えさせられる所があるし、
タネが分かった事素直に喜ぼうよって性格だなぁ。タネがわかれば自分も同じことができるんだし
飛行機が何で飛ぶのか知りたくないの?と言いたい気分。
まあ、アンデウソンの敗北は衝撃的だったね。当たり前の事だけど…