UFC公式ニュースより
11月17日、UFCウェルターウェイトチャンピオン、ジョルジュ・サンピエールは
オクタゴンに足を踏み入れる。彼のホームシティ、モントリオールはベル・センター
で、王冠を守るために暫定タイトルホルダーカルロス・コンディットとUFC154の
メインイベントで対峙する。それはGSPの名だたるキャリアの中では最新の
章であり、その他の章について彼自身の言葉で語られたものを以下に記す。
最初のマット・ヒューズ戦について(2005年)
「私は彼に敬意を払いすぎた。私は試合の中で生き残ろうとしたが、何も
言い訳できない・・・彼は私を真正面から完膚なきまでに打ち負かした。
次の時にはまた違った展開になるだろう、私はもう違うファイターだからね。」
カナダにおけるMMAの初期の印象について(2005年)
「私たちはとても乱暴なスポーツをやっている。だから多くの人は、特に私の
国では、私が本当のアスリートだと思わなかった。彼らは私たちをストリート
ファイターか喧嘩屋と見ていた。だから私たちにとってはこのスポーツに良い
イメージを与えること、そしてオクタゴンの外では紳士たることが重要だ。
そうすることで若者たちに良いイメージを与えられるし私たちは彼らの模範
となれる。正道を歩むことが重要なんだ。」
母国でのトレーニングについて(2005年)
「とにかく寒いし、スプリントトレーニングをやるときに雨が降ってきたけど
しょうがないからやったよ。練習のいくつかは外でやる、だからたとえ雪が
降ろうが雨が降ろうがやるんだ。外がものすごい悪天候のときにスプリント
をやってたら、息をするのも苦しいし、寒さも何とかしなくちゃいけないし、
地面は固くないし水没してて時々滑ったり転んだりした。でもオクタゴンに
入るとき、そこはとても美しい場所になる。」
発端(2005年)
「UFCの第一回大会でホイス・グレイシーを見たとき、ミックスド・マーシャル・
アーツのスーパーボウルみたいだと思った。空手のチャンピオン、柔道の
チャンピオン、また柔術のチャンピオンになれるかもしれない、でも
アルティメット・ファイティングのチャンピオンになれたとしたら、それはそれら
全てを一緒くたに混ぜ合わせた中でのチャンピオンということだ。そしてホイス・
グレイシーがその大会中で最も小さい男の一人にも関わらず全員倒して
しまったのを見たとき、私はこれこそが私が生きるために求めてきたもの
だったのだと心に決めた。」
彼の仕事について(2006年)
「私は自分の仕事を愛している。地球上で最高の仕事だ、そして私が闘いに
望むとき、私は本当にこの仕事が好きだと感じる。私が唯一この仕事が好き
じゃないと感じたのは(マット)ヒューズと戦ったときだけだ。その試合はあまり
にもストレスを感じすぎたし楽しくなかった。でももし私のトレーニング
パートナー達と話す機会があったら、彼らは私が練習中に笑ったりジョークを
言うのが好きな奴だと教えてくれるだろう、なぜって私は本当にこの仕事が
好きだからさ。フルコンタクトスポーツだからちょっとだけストレスが多いのは
確かだし、闘いに行く時には数多のリスクがある。でも、私はそれを忘れるように
努力するし、私は自分が好きなことをやり、ただ自分の事をやるんだという
事実を考えているだけだ。」
ヒューズとの最初の試合についての熟考(2006)
「最初に彼と戦ったとき、私は自分の偶像と戦っていたんだ。そんなことを
したのはその時が初めてだったし、彼が私の前に立ったとき、私は心の中で
思っていた。彼に何もできやしない、だって彼はあまりにも素晴らしすぎる
から、って」
対BJ・ペン1戦目の第1ラウンドについて(2006)
「あのファースト・ラウンド(対ペン戦)は人生で最悪のラウンドだ。実は私の
キャリアを見ればわかるが、誰と対戦しても私がラウンドを落としたことは
ただの一度も無かった。私がマット・ヒューズと戦ったときでさえ、ジャッジは私が
優勢だと考えていた-もしつけるとしたらあのラウンドを自分につけるかどうか
彼らに尋ねたんだ。だからこのラウンド(対ペン戦)は私が落とした唯一の
ラウンドだ。」
ペン戦で逆境から立ち直ったことについてに2006年)
「あれでマット・ヒューズと戦ったときよりも自分が精神的にずっと強くなったことを
皆に証明した。私は負けから立ち直り勝利を手にしてきた。私が思うにあれが
チャンピオンと、常にタフだが一度もチャンピオンになれない人間の違いだ。
自分が望むとおりの技術を身につけたとしても、精神的な強さがなければ、
どこにも行けないし、私たちのスポーツの中では、遅かれ早かれ、
闘いに勝つにはそれが必要になるだろう。」
マーシャル・アーティストであることについて(2006年)
「私は自分自身はマーシャル・アーティストだと考えている、それは医者になる
ようなものだ-医者はそのキャリアにおいて常に勉強し続ける、そしてそれは
私も同じことだ。私が闘いにおいて高いレベルに到達したとしても、私は心を開き、
研究し続け物事を学び続けねばならない。」
5ラウンド突入について(2007年)
「私は5ラウンドまで行ったことがない、でもその練習はしてる。母国で最高の
ボクサーと最高のレスラー達とともに練習し、長距離戦に備えて練習してる。
もし必要なら私は10ラウンドをやる準備もできるだろう。私がいつもハードに
練習し続ける理由は、もしタイトルを取れたとしても尊敬は得られないかも
しれない、-つまり尊敬を得るためだ。もし今、ベルトは獲れたが尊敬が
得られなかったら、私はそれを獲得する必要がある。そのときには、私は
他の何かで自分自身に挑戦をしなければならないだろう。」
タイトル獲得について(2007年)
「夢が叶ったんだ。私の母は格闘家としてのキャリアを始めたときにとても
助けてくれた。だから私の人生においてもっとも大きな夜となったあの時、母が
そこにいてくれたことはとても大事なことだったんだ。母は私が多くの犠牲を
払ったことを知っているし、母は私を誇りに思うと言ってくれた。」
技術は不十分(2007年)
「何がしか技術があるとして、でも私はもっと得なければと思う。まだ技術は
不十分だからだ。犠牲を払う準備が必要だ。私はそれが自分を救うと思う-
私は十分技術があるし運動能力もある、でも犠牲を払う準備もまたするんだ、
それが頂点に導いてくれる。」
オクタゴンでの対戦経験について(2007年)
「もしもっと闘いや人生において経験を積んだら、同じ過ちは繰り返さない
だろうね。私はそれが精神的な弱さとは思わない、人生においての経験不足の
せいだと思う。私は26歳で、自分の犯した過ちから学んできた。私はたった17戦
しかしてないし、いつも大抵は30歳以上で30戦以上経験がある相手と戦ってきた。
もちろんそういう人たちは経験において私に対して強みがある。だから私は
スマートになり、自分の競技能力と技術を使って倒さなければならなかった。
なぜなら私はいつも経験経験不足だし、彼らはいつも戦いと人生の経験において
自分を上回っていたからだ。」
マット・セラとの初対戦前の人生について(2007年)
「タフだったよ。人生においてたくさんの問題を抱えてたし、人々は私の人生に
何が起こるかなんて知る由もなかった。私はたくさんのものとたくさんの悪いものが
全部同時に起こる中を通り抜けてきたんだ。そしてこれらのことが起こった時、
何も説明できないような感じがした。私はそんなことしたくなかった。なぜなら私は
マット・セラを尊敬していたし、私は彼が受けるべき賞賛の全てを送りたかった。
彼は私を負かした、とてもうまく負かした、私はいたたまれなかった。」
セラ戦後(2007年)
「私が負けたとき多くの人が私を失望させた。だがそのミスで責められるべき
人間はただ一人、私自身だ。私は負けた、何の言い訳もない。より良かった男に
その夜打ち負かされた。私は人間だ。私は人生においてミスをした、まずい
選択をした、私はあるべき自分と一番優先すべきことを忘れ、その試合に負けた。
私はそのツケを払い、そして今、それまでよりもずっと良くなってトラックに
戻ってきた。あの夜の自分の状態に近づいてさえいない-私はより良いファイター
としての道にいる。」
---------------------------------------------------
後半に続く